6月第1週目の日曜日。悠梨ゆうりは大きな瞳をいつも以上に大きく開いて固まっていた。
朝刊を取りに外にある郵便ポストまで出向いた彼女は、取り出したばかりのそれを片手に視線を一点を集中させている。

それが向かう先には1人の男の姿。
ハンチングを深めに被り、顔にはサングラス。そして、黒でまとめられたシンプルなカジュアルな服。
一見誰かも分からない怪しい男だが、スタイルも良く、まるでモデルのようだ。

そんな人物とばっちし視線があった瞬間は、悠梨がポストから朝刊を取り出したまさにその時。
いくら家の敷地内だからって気を抜いていたのかもしれない。これは彼女にとってはあまりにも予想外な出来事なのだから。

悠梨はしばらく男性を凝視していたが我に返った途端、顔を真っ赤にして新聞紙を胸に抱いた。
同時に、今まで黙ったまま彼女と目を合わせていた男性は静かにサングラスを外した。





「…そういえば、此処ってお前の家だったっけ」





深めに被っていた帽子を少しだけ上げ、改めて悠梨に目を向ける男―――――瀬那せなは、ゆるりと顔を上げた。

「おはよ。」と呟いた瀬那の言葉に、悠梨は固まったまま頷くだけ。
訝しげに眼を細めた彼は軽い足並みで近づき、彼女の顔を覗きこんだ。





「おい。もしかして寝ぼけてるのか?」





あまりの距離の近さに悠梨は出かけた悲鳴も一緒に言葉を飲み込む。
挙動不審な態度が変わらない彼女をじっと見つめ、様子を見ている瀬那だが、見られている状態の悠梨は全く落ち着けない。

ドッコン、ドッコン煩く鳴り響く鼓動を耳に耐えている彼女の心境に気づいてか、気づいてないのかは定かではないが。
瀬那はしばらく顔を真っ赤にしたままきゅっと目を瞑っている悠梨を見つめ、漸く彼女との距離を僅かに離した。

瀬那の存在感の近さがすっと離れたことに胸中安堵したのも束の間。
直後、悠梨の顔は先ほどよりも更に紅潮させられるのだ。





「もしかして、何か期待してたのか?」

「ええっ!?」





低く囁かれ、思わず肩が大きく揺れ顔に熱が集中する。
慌てて手に持っていた新聞紙で顔を隠すも、耳に届くのは楽しそうに笑う瀬那の声だけ。

あまりの恥ずかしさにいたたまれず、今直にも逃げ出したいと思う悠梨だが、瀬那を目の前にそんな事が出来る筈もなく。
耳まで赤く染まる彼女を可笑しそうに見つめ、瀬那はそこで漸く話題を変えるよう彼女の頭にぽんと触れた。





「こんな時間にお前と会うとは思わなかったが、休日もこのくらいの時間に起きてるのか?」

「あ、は、はい…。お母さんたちが留守の間は私がきちんとしとかないと、家の中が大変になっちゃうから」

「そっか。じゃあ、朝から掃除に洗濯、買い出しとかも全部お前がやってるのか」

「うん」





瀬那と話している内に少しずつ落ち着きを取り戻した悠梨は、気づけば自然と普段通りの対応が出来るようになっていた。





「そういえば、瀬那君はこれから何処に?朝早くからお仕事?」

「ああ。今日は夕方まで収録と8月に発売される写真集の撮影とか…」

「しゃ、写真集!?」

「…あ。そういやあ、まだ公式サイトにも発表されてなかったんだっけか。…此処だけの秘密だぞ、悠梨」





一瞬「ヤバイ」と表情を歪めた瀬那だったが、直にいつもの表情に戻り彼女に向けて口元に人差し指を立てる。
初めて見たその仕草に胸を撃ち抜かれ、悠梨は再び体温が上昇するのを感じた。

慌てて頷いて見せる彼女を目に、瀬那は苦笑交じりに空を見上げた。
晴れてはいるが雲は大きく泳いでいる。





「ああ、そうだ。今日は夕方に雨が降るとか言ってたから、洗濯や買い出しは早めにしておいた方が良いぞ」

「え、そうなの?」

「俺が見た天気予報ではそう言ってた。まあ、本当に当たるかどうかは保証できないが」





そう言って不意に腕時計に目を向けた瀬那は、さっとサングラスをかけ直して帽子も被り直す。





「あ…。お仕事の時間?」

「ああ。今日は烈火と約束がって、アイツ俺の家に泊まりに来るんだよ」

「わあ!お泊り会するんだー」

「…ったく。自分だけ早めに仕事が終わるからって唐突な話だ。じゃ、俺はそろそろ行くな」

「あ、いってらっしゃい!お仕事頑張って!」





あまり大きな声で言えないので、小声並の音量で見送る。
肩越しに振り返った瀬那は彼女に手を振り返すと、そのまま十字路の角を曲って行った。

以前、瀬那達が悠梨の家に来た時、自分の家もこの近辺だということを話していた。
通学路もこの道だと言っていたので、おそらく同じ住宅街の道の何処かに彼の家もあるのだろう。
何処にあるかは知らないが、悠梨は休日に瀬那と会えた事に喜びを噛みしめながら家の中へと戻って行った。

































「えーっ!烈火れっか、今日瀬那の家にお泊りするの!?」

「おう!良いだろ、羨ましいか燈弥とうや?」





時刻が午前10時を回った頃、とあるスタジオに【Sky Blue (S.B)スカイブルー】が集合していた。

その中の一室で相変わらず派手な赤い髪をなびかせる烈火は、意地悪な笑みを浮かべて燈弥を見下ろす。
「烈火だけズルイよ!」と抗議の声を上げる燈弥は悔しそうに頬を膨らませた。





「俺が言う事じゃないが、お前等月に何度嘉山かやまの家に泊まりに行ってんだ?ご家族の方にも迷惑だろ」

「やあん!ちょっと聞きまして、奥さん!あのなぎさが…”あの”渚がっ、瀬那の肩をもちましてよ!」

「お前は一体何キャラだ!?いちいち俺の癇に障るような言い方をするな、バカ吹雪ふぶき!!」

「ひいいいっ!聞いた?今度こそ聞きまして!?今っ、私の事…好きって…」

「言ってねーよ!!耳まで腐ったか、このキモ星人!!」

「”耳まで”とはどういう意味だ、コラァ!?しかも、キモ星人とは失礼な!!こんなイケメン、この世で俺ただ一人だ!!」

「…しばらく口閉じてろ、吹雪」





額に幾つもの青筋が浮かんでいるようにみえる渚に同意するように、ノリに乗ってふざける吹雪を止める瀬那。
呆れながら一人テーブルでプリントをまとめる彼の隣で、烈火は棒付きキャンディーを口にくわえながら手伝う。

「何だよ、瀬那までー。」とつまらなそうに呟く吹雪を燈弥が宥めている間に、静かに瀬那の隣に渚が座った。
途端、烈火の瞳が僅かに驚きを見せる。





「…あ?何だよ、烈火」

「いや。お前が自ら瀬那の隣に座るの珍しいなーと」

「そうか?仕事中ならよくある事だと思うが」

「え。そうだっけ」





疑問を投げかけた烈火に平然と答えを返す瀬那。その隣では渚も無言でこくりと頷く。
プライベートではなかなか無いにしろ、確かに仕事中だとリーダーの吹雪よりも瀬那と渚が中心になって事を進める事は多い。

普段あまり仲が良くない様に見えても、意外と相性が良いんじゃないだろうか…。
烈火は内心そう思いながらキャンディーを舐めつつ、黙々と作業に取り組む二人を見つめる。
何言か話しながらプリントに少しずつ文字を書いていく瀬那に、渚は眼鏡をかけながら時折言葉を付け加えて手助け。





「なあ。今度、お前等二人で組んで番組出演して…」

「はあっ!?何言ってんだ、烈火。そんな事したって結果が見えてるだろ。んな危ない橋渡るような事する必要なんざねェ。なあ、かや…」

「確かに渚と二人だけで出た事はなかったな。…面白そうだし、今度相談してみるか」

「うおいっ!俺の話を聞いてたのか、お前は!?俺とお前が出たところで意見があった事なんか今まで一度も―――――」

「フッ、渚め…。お前が怖気づくなんてキモキモだぜ」

「…今一瞬にして殺意が沸いた。おい、そこの頭沸いてるイカレ野郎。そこに直れ。俺が直々に脳天をかち割ってやる」





漸く落ち着いてきたのに再び吹雪のせいで二人の騒ぎが復活。
やれやれ…とため息をつく瀬那を横目に、烈火は瀬那のペンケースからシャープペンを一本取り出して彼の手伝いに加わった。





「あ。ところで、瀬那」

「ん?」

「今度新曲発売するだろ?あのジャケットどうする?今回のって恋愛ドラマの主題歌になってるじゃん」

「そう、だな…。やはり歌のテーマに合わせるのが妥当なんだが…」





6月末に【S.B】は新しいシングルを一枚発売する。
烈火が言った通り、それは今月始まる恋愛ドラマの主題歌に採用され、その歌のテーマも恋愛ものになっている。

ずっと幼馴染の関係であった高校生の二人が、あるきっかけで互いを意識し始める。
近い距離に居すぎたから気付かなかった想いが、日に日に積もり。
気がつけば本当に恋をしていた。学園ラブコメディをテーマにした内容に合わせたものだ。





「吹雪にしては珍しく純等な詩にしたよな。まーた夜の銀座になるかと思ってた」

「さすがのアイツも、そう何度も同じテーマにしないだろ」

「瀬那も流石だよな。今回のって俺達にしたら珍しい一品になったと思うぜ。ほとんどピアノソロだもんな」

「後半は盛り上げるようにしているから、”俺たちらしさ”は残ってるだろ?」

「おう。渚も頑張ってたもんなぁ…。アイツってスゲーよな。どんな曲にも合わせられる声持ってるもんな」

「それが渚の最大の武器だ。アイツは日常的行動は不器用でも、これに関しては【S.B】でズバ抜けて器用だ」

「羨ましいねぇ…。俺はバラード系は苦手だからなぁ」

「お前は見た目からしてロックだからな。…だが、一度歌ってみるのも良いんじゃないか?結構しっくりくるかもしれないし」

「あー…、当分はいい」





カラコロ、カラコロ。
烈火は口の中でキャンディーを転がしながら不意に反対隣から感じた気配に目を向ける。

前髪を掻き上げ、まさに”決めポーズ取ってます”最中の吹雪がワザとらしくも深い溜息を着きながら、そんな烈火の肩に肘を乗せて語り始めた。






「可哀想な烈火…。嗚呼っ、なんて哀れな子羊ちゃん!バラードが苦手だんなて、ならばこの先どうやって愛する人に想いを伝えようと言うのか…っ!」

「別に歌以外で伝える方法なんて山ほどあるし」

「愛をテーマにするならば、1にバラード。2にバラード、3、4が無くて5にバラードって程なのに…!!」

「おーい、渚ー。ここに痛い子が紛れ込んでるぞー。誰だ入室許可を出した奴はー」

「俺が知るかっ。つか吹雪!お前はいつまでそんなくだらない演技してるつもりだ!さっさと仕事に戻れ!それでもリーダーかお前は!!」

「嗚呼っ、可哀想な不憫でならない子豚がもうひとり…!!」

「…誰が子豚だ、誰が。吹雪、そこを動くなよ。今から俺が直々にテメエに制裁を与えてやる!」

「きゃーっ!イヤ!誰か助けてー!ここに変態と痴漢とエロスが合体して融合した珍生物がいるわー!助けてー、襲われるぅ!」

「―――吹雪。今すぐ口を閉ざさなければ次からお前の髪はなくなるぞ」





何処から取り出したのか、瀬那の右手にはバリカンが握られている。

隣に座っていた烈火もきょとんとしながらそんな彼を見つめ、燈弥と渚は呆然。
ただひとり、吹雪だけはその場で土下座をしていた。


相変わらず騒がしく賑やかな仕事現場。
話し合いが終わり、次なるスケジュールに向けてそれぞれが場所を移動していく。
そんな中、今日だけ珍しくメンバーの内で誰よりも早く仕事を終えた烈火は帰り仕度を済ませると、少なからず変装して事務所を出た。

空を見上げれば曇り空が広がっており、所々重たい色をした部分も見える。
時刻は16時前。遅くても夕方には雨が降ると天気予報で伝えられていた事を瀬那から聞いていた彼は、肩にかけているリュックを背負い直し早々に歩きだした。

だが―――――。





「うわ、マジかよ」





歩き出して5分もしない内に空からポツポツと降り始めた雨。
キャップを深く被り直し、烈火は急いで走り出した。





「…っは。おいおい、こりゃあいくらなんでも振り過ぎだろ…」





なんとか雨宿り出来る場所まで来れた烈火はリュックからタオルを取り出す。
駅から多少離れたところに居るため一通りは少ない。お陰であまり一目を気にすることなく済むが、今の彼はほとんどびしょ濡れ状態。

最初はちょっとしか振ってこなかった雨だが、それはほんの1、2分程度の間だけ。
直後ザーザーを勢いを増して降り出した雨は容赦なく傘を持たない彼等に降り注ぎ、烈火は雨宿りを余儀なくされた。
濡れた腕や顔、髪を拭いていくがタオル一枚じゃ足りない。
やれやれ、と溜息を漏らしながらかけていたサングラスを外すと、隣からカサリと音がし。





「え――――…」





そこで漸く、自分以外にも人が雨宿りしている事に気がつくのだった。

―――ヤバイ!

彼がまず感じたのはそれだ。もし自分達のファンだったら逃げられない。
特に相手が女性だった場合、烈火は心の底から悲鳴を上げること間違いなしだ。
そんなところをファンに目撃されては【S.B】の評判がどうなるか分からない。メンバーとマネージャーのヨツ、そして社長くらいしかそれは知らない。

信用出来る関係者も数名しっている人間はいるが、それは本当に限られた人間だけだ。
万が一の事も考えられない程心中緊迫している烈火は、サングラスをかけるのも忘れて咄嗟に隣を見た。





「え、は、うそ…なんで、君が…?」

「れっ…!え、えと、え?」





お互い呆然として見つめ合う。
ひとりドキドキして若干パニックっていった烈火だったが、隣で雨宿りしている存在が知人であることを確認すると、今まで溜まっていた緊張が僅かだが治まった。

その人物・悠梨もまさか自分がファンであるグループのメンバーの1人が同じ屋根の下で雨宿りしているとは思わず、変わらず瞳を大きく開いて驚いている。
暫くお互い口をぽかーんと開けたままでいたが、我に返った烈火は直様サングラスをかけ直す。
ワタワタと忙しく動いている彼の様子を静かに見ていた彼女も、少ししてふと笑みを零し、その声を聞いた烈火は僅かに羞恥を浮かべてワザとらしくも咳払いをした。





「あー…、その………、ども」

「あ、こんにちは。すみません、笑ってしまって」

「い、いや…」





沈黙が訪れる。
何を喋っていいのか分からない烈火は気まずさを覚えながら視線を彷徨わせ、未だ激しく振り続ける雨を見つめる。
少し離れて横に並ぶ悠梨もそれは同じで、もごもごと何度か口を開くも、結局は何も発せられる閉ざしてしまう。

ただ雨の音と、時折車が通り過ぎる音を聞きながら無言の時を過ごしていた。
だが。
烈火はふと気付く。彼女の両手には袋いっぱいに物が詰まった買い物袋が持たれている事に。





「……重くないのか?」

「え?」

「あ、いや、そのっ、……それ、重たそうだな…って」





烈火が何を指して言っているのか直に悟った悠梨は自分の手に握られている買い物袋を見下ろす。
今朝瀬那と会った時に雨が降ると教えて貰った彼女は出来るだけ早めに買い物を済ませようと出かけていた。
途中、母親から連絡があり近々家に帰る事を知ったので、買い物の量が増えてしまったのである。

返答しようと烈火に目を向けた悠梨も、烈火同様に彼の状態を改めて見つめた。
先ほどタオルで拭いていたとはいえ、やはりまだ濡れている。それに夏には少しだけ早い。
このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。

悠梨は肩から下げていたカバンからハンカチを取り出し、躊躇いがちに口を開いた。





「あの、烈火君」

「ぅえっ!?お、俺!?」

「は、はい。あの、良かったらこれ、使ってください」

「え、」





差しだされたのは女の子らしい花模様のワンポイントがついたハンカチ。
自分がまだちゃんと拭き切れていない事に気遣ってくれた事を悟った烈火は、嬉しく思う反面躊躇いが出る。
相手は自分が最も苦手とする女性だ。近づくだけでも相当難しい彼にとって、彼女からハンカチを受け取ることは更に頑張りをみせなければならない。

未だ握手すらできたことがない彼にとって、その行動はやはりしずらい。





「あ、ごめんなさい。私、烈火君のこと気付けてあげられなくて」

「え…。あ、違…」





勘違いをさせてしまった。
烈火は慌ててそれを否定しようと口を挟むが、それは彼女によって呆気無く止められてしまう。





「すみません、烈火君。これなら大丈夫でしょうか?」





悠梨は自分の傘の取っ手にハンカチをぶら下げ、そのまま烈火の前に伸ばし差し出している。
まさかこんな風に動くとは烈火も予想していなかった様で、彼女の行動に呆気に取られている。

なんとかして烈火にハンカチを渡したいという一心の悠梨の行動。
そして、ショックを受けるどころか、更なる頑張りを見せ気を使ってくれる優しさ。
烈火はそんな女性を初めて目にしたため、しばらく悠梨を見つめることしか出来なかった。





「……烈火、君?」

「あっ、ごめん」





傘の取っ手にかけられたハンカチを烈火が受け取ると、悠梨はほっとしたように安堵の笑みを浮かべた。

「遠慮せずに使ってください。」彼女の気遣いがまた一つ烈火に触れる。
相槌を打ち彼女から受け取ったハンカチで濡れたままだった頬にそれを滑らす。
その様子を見守る彼女の視線を受けながら、烈火はふとある事を思い出し、それは自然と彼の口から囁かれた。





「前に、瀬那にもこういうこと、されたっけな…」

「え?」

「…俺、あんまりテレビ見ることなくてさ。よく瀬那に注意されるんだよ。”天気予報くらい見てから来い”って」





でも結局、俺はテレビを見ない生活は続いてる。
全然見ないってワケじゃねーけど、吹雪達に比べたらテレビ見る前にギターに触るばっかりだからさ、そうなると周りが見えなくなるんだよ。
んで、そんな事ばっかしてたら、ある日大雨に当たっちまって。傘もカッパも持ってない俺は途中びしょ濡れ状態。

そこに偶々通りかかった瀬那が呆れ顔で俺にタオル渡してさ、何て言ったと思う?
ただ一言、”阿呆。”だってよ。
言い返す言葉は無し。だって自業自得だし。それに瀬那からは何度も注意されてんのに、俺はそれでも天気予報一つ確認しない。
しょうがねー奴だって思うだろ?けど俺、それでもイイとか思ってんだ。


―――何でだと思う?


小声で問われたその一言に悠梨は素直に考え始めた。
自分だったら何度も注意されれば身に染みて天気予報くらい見るようになるはず。けれど、烈火はそうしない。





「うーん……」

「これ、深く考えたら負けだぜ?」

「え…?」





烈火は悠梨から借りたハンカチをキレイに畳み直すと、不意に空を見上げた。





「俺さ、不思議と確証持ててんだよ」

「確証、ですか?」

「そ。瀬那に対する絶対の信頼と、アイツの良過ぎる気配りに」





だから俺は天気予報を見ないし、注意されてもほとんどの事は放置。
勿論大事な仕事に関することは別だけど、簡単で単純な事だけは置いたまま。

だってさ、そうしたら――――…。


烈火はハンカチをズボンのポケットに仕舞うと、自ら彼女の手に在る袋に手を伸ばした。
驚きを隠せない悠梨はただただ烈火を凝視する。
顔色一つ変えずに彼女の持つ袋を片手に一つずつ持った彼は、彼女に見せる初めての素顔を浮かべた。





「…お前等、2人揃ってこんな所で何してるんだ」

「せ、瀬那君!?」

「うわっ!ビックリした…。マジで来てくれた…」

「はあ?何言ってるんだ烈火。お前の予定じゃもう俺の家に先に着いてるはずだろ。何やってるんだこんな所で」

「えーと……雨宿り?」

「傘は?」

「ない!」

「はぁー…」





心底呆れた目を向け、瀬那は溜息。
うっ、と言葉を詰まらせる烈火は苦笑を浮かべながら「幸せ逃げるぞー。」と呟くも、瀬那の眼差しは変わらない。





「悠梨、まさかお前も傘を忘れたのか?」

「え?あ、ううん。私は折り畳みを持ってるけど…」

「え?」

「じゃあ何で使って帰らなかったんだ」

「雨の勢いが凄かったし、それに買い物しすぎちゃったから少し治まって来てから帰ろうかと…」

「まあ、確かにそれが最善の答えだな。それに比べ…」

「だっ!そんな目で見るなって!悪かったよ、また忘れて」

「どうせ反省なんてしないんだろ。…ったく、今朝わざわざメールで教えてやったっつーのに」





そう言いながら瀬那はカバンから1つの折りたたみ傘を取り出し、烈火にひょいと投げ渡す。
軽々とキャッチした烈火の表情は明るい。
そんな2人のやり取りを見て、悠梨は先ほど烈火が言いたかった言葉の意味を漸く理解した。





(そっか…。そういう事だったんだ)





烈火が瀬那に持つ信頼と、その絆の強さ。
良き理解者同士である彼等は、自然と互いを意識しているのだ。





『俺さ、不思議と確証持ててんだよ』

『そ。瀬那に対する絶対の信頼と、アイツの良過ぎる気配りに』





仲が良いだけでは補え合えない。
本当の自分を知ってくれているからこそ、互いを支え合える。





(まさに”男の友情”ですね!)





悠梨の顔に自然と笑みが浮かぶ。
目の前で相変わらずのやりとりを繰り広げている2人は、揃って彼女に振り返った。





「おい、悠梨。お前の傘って大きいか?」

「え?あ、ちょっと待って下さい。今広げて――――」





―――「うわっ、すんません!」
その時、烈火の謝罪の声が届く。

瀬那と悠梨はふとそちらへ顔を向けると、そこには彼とぶつかった―――――――女性が、居て。


ドサッ、グチャ。


烈火の手から袋が嫌な音を立てて落ちる。
それに気づかず謝って去っていった女性の背を見送ると、2人は呆然と佇む彼からその音のした物へと目を向けた。

見るからに袋から飛び出た品物と、隙間から見える卵の黄身の姿。





「この阿呆」

「痛ッ!」





瀬那から制裁の水平チョップを当てられて漸くその状態に気づいた烈火は、何度も悠梨に謝り。
無事な物を袋に詰め直すと同時に、落ちていたそれを拾うため伸ばした指先が音もなく触れあった。

そしてお約束。





「ぎっ、」

「叫ぶな」

「ふぼぉっ!?」





烈火の絶叫を瀬那の掌が封じる。
涙目になりながらも必死で今起きたことを彼に伝える烈火、そして再び呆れ顔の瀬那。

さっきは突然の事で叫ぶことすらなかったが、今回のはいつもの通りのまま。
完全にさっきまであった柔らかな空気は消え、女性に怯える子犬と化した烈火は既に瀬那の背中へ避難。
そんな彼をそのままに、瀬那は割れてしまった卵を弁償するため3人でスーパーへと向かった。

買い物が済んだ頃には雨は勢いを収め、パラパラと大人しい雨音を鳴らす。
水たまりを避け、1つはベージュの折りたたみ傘を、もう1つは少し大きめの水色の傘を差し帰路を歩く。





「…な、なあ、瀬那」

「ん?」

「お前、何でそんなに平然としてるんだよ…」

「…何がだ?」





ベージュの傘に烈火が1つ荷物を持ったまま入り、水色の傘には片手に荷物を持った瀬那と傘を支える悠梨。

「完全に愛相傘じゃねーかよ、それ。」と呟く烈火の声は瀬那には届かない。
ただひとり、彼の存在を意識し過ぎて耳まで真っ赤の悠梨は烈火のその呟きにさえ肩をビクつかせて反応した。

だが鈍感の瀬那は気付かない。そして間違った勘違いをし、あろうことか烈火の横に移動すると彼の手から傘を取り上げ、その背を勢いよく押した。





「おわっ!?」

「きゃっ」





一気に真横に並んで縮まった距離。
互いに顔を別の意味で真っ赤にさせた2人は、特に烈火はそれはそれは大きな悲鳴を上げて1人走り去った。

本当に可笑しそうに笑う瀬那を悠梨は恥ずかしさに耐えて注意。
結局自分の勘違いに気づかず笑い過ごした瀬那は、自分の家に着くと同時に烈火によって自分の特技である水平チョップを喰らわされることとなる。




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