青空が広がる空の下で今日も晴華学園の校庭で、たくさんの生徒に見つめられている人物が居た。





「おーい、瀬那せなー!今度はバトンのパス練やろうぜ!」

「ああ、今行く」





体育祭まで残り1週間をきった今日、朝から学校へ来ていた嘉山 瀬那かやま せなは朝早くから集まりその練習に参加していた。
仕事と学生生活の両立はその時のスケジュールによってかなり偏ってしまうため、なかなか積極的に練習に参加できずにいた。

しかし、残り1週間と迫った日から社長の計らいで学校を優先できるよう配慮してくれたのだ。
お陰で瀬那は今まで出れなかった分を取り戻すようにクラスメイト達と自分が出る種目に合わせて協力し、練習を行っている。





「あ!せーなー!」





そこへ元気よく手を振ってやってくるのは彼と同じ【Sky Blue(S.B)スカイブルー】のメンバー・燈弥とうや
1つ下の学年であるが瀬那を見かけると必ずこうして声をかけてくる可愛い少年だ。

岳内 淳たけうち じゅんとバトンパスの練習をしようと準備していた瀬那は一旦それを止め、駆け寄ってきた燈弥を快く迎えた。





「どうした、燈弥。何かあったのか?」

「ううん。そうじゃないけど、ちょうど区切りが着いたから瀬那達の練習を見に来たんだ。どう、順調?」

「今からリレーで最も重要なバドンパスの練習をしようとしてたところなんだ。燈弥もリレー出るんだろ?」

「うん!タケジュンも紅白リレー出るんでしょ?さすがはサッカー部。足速いんじゃん」

「いやあ、それほどでもあるけどな!」

「…そう言って、去年は見事にバトン落としたんだったよなタケ」

「うっわあああ!何で過去の傷を抉るようなこと言うんだよバカ瀬那ー!ああっ、胸が痛い…!」





ワザとらしく胸を押さえて蹲る淳を見事にスルーし、瀬那は足元に置いていたバトンを拾ってコースへと向かう。
くるりと燈弥に向き直ると、彼の手は”ちょいちょい”と上下に振られた。

―――手招きである。
すぐに反応した燈弥は何とも素早い動きで瀬那の下まで走り寄り、淳を放置したまま2人でバトンパスの練習を始めた。





「ちょっ、放置プレイって一番よくないんだぞ瀬那!!」





淳の嘆きはまたもやスルーされる。
慌てて瀬那の下へと駆けていく淳。そんな彼等の見慣れたやりとりを少し離れたところからクラスメイトである悠梨ゆうり達がおかしそうに眺めていた。





「本当に仲が良いわね、あの3人」

「まあ、嘉山君と岳内は幼馴染だし、燈弥は同じグループなんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけど…」

「まるで兄弟だね」





悠梨の友人であるあかねとあやのも再び笑いだし、暫しの間楽しそうに練習に励む3人を眺めていた。
しかし誰よりも先にハッと我に返った茜が慌てて2人を練習へと戻す。
この体育祭では優勝したチームにはとってもすごいご褒美が待っているのだ。負けは許されない、と意気込む茜に連れられ悠梨とあやのは練習を再開した。







































1時間目開始ギリギリまで練習をしていた悠梨達は、朝からはりきりすぎて少々疲れたまま授業を受けた。
しかも最初の授業に古典がきてしまい、体力をつかい過ぎた生徒は眠たそうにしていた。
悠梨の隣の席である瀬那は眼鏡をかけながら真剣に授業を聞きつつノートをまとめている。誰もが眠たそうにしているのにも関わらず、彼は相変わらずだ。

全然疲れていないのかな…?悠梨は純粋に気になり、彼の横顔を盗み見しながらこっそりと窺う。





「俺の顔に何か付いてるか?」

「…!!!」

「…いや、バレバレだし、それ」





顔の向きは変えないまま瀬那が横目で悠梨を見やる。まさか盗み見がバレていたとは思わなかった悠梨は慌てて教科書を持ち直すが時既に遅し。
誤魔化しなんて彼に通用するはずがない。今まで瀬那と過ごしてきた中でそれは身に沁みるほど味わってきた。

一度前を見、先生がこちらに注意を向けていないのを確認したところで悠梨は意を決して彼にだけ聞こえる声量で尋ねた。





「あ、あの…瀬那君は疲れてないの?」

「?」

「その…朝の練習」

「…あの程度で疲れてたら今の仕事はやっていけない」





説得力がありすぎる…!御尤もな意見を聞いてしまったのではこれ以上言えない。
瀬那は自分が家でのんびりしてる間も一生懸命仕事をしている。そう思うと何だか自分が情けなく感じてきてしまう。





「私も何かやること見つけたいな…」





今や既に黒板へと視線を戻してしまった瀬那の横顔を一瞥しながら悠梨はこっそりと今の気持ちを零した。
誰に聞かれているとも思っていない彼女はそのまま授業に集中するため、彼と同じように黒板へ向き直る。

悠梨が真面目に授業を受け始めた頃、今度は瀬那がこっそりと彼女を見やり、ただ静かに微笑を浮かべた。



そんなのんびりした時間が過ぎていき、気付けばお昼休みになっていた。

「飯ー!!」と元気に響く淳と茜の声。2学年になってからというもの、この2人の掛け声は既にこのクラスでは馴染みある物だ。
彼等の掛け声が上がって漸くお昼ご飯が食べれると実感が沸く生徒もおり、2人はまるで食事開始の合図のようなものになっていた。





「瀬那、瀬那ー!今日は何処で食う?屋上?それとも裏庭?」

「タケ。あまり大きな声でそういう事を言うな。食事の時間くらい静かに過ごさせてくれ」

「ああ、ワリィ。腹減ると我慢できなくなっちまってさ!」

「…ったく」





鞄の中からお弁当を取り出した瀬那は教室の外を窺う様に目を細める。ドアの窓に薄っすらと浮かぶ影たち。
間違っていなければ他のクラスの生徒達が待ち構えているはず。
そのほとんどが瀬那が出てくるのを今か今かと期待して待っている女子生徒であることを彼は嫌でも認識している。

薄っすらと溜息をつき、瀬那は取り出したばかりのお弁当をいつも通り悠梨へと差し出した。





「じゃ、今日はオアシスに集合。いいな?」

「りょ、了解です、瀬那君っ」





ビシッと敬礼のポーズをとってみせた悠梨。そしてその隣で「ガンバー」と他人事な素振りで手を振る茜。
友人達に見送られながら瀬那は一度深呼吸をし、そしてついに教室のドアを開けて廊下へと踏み出した。

途端、廊下中に響き渡る女子の黄色い声。クラスメイトは同情の眼差しをその背に送るのだった。





「タケ、肉」

「はいよ」

「…タケ、玉子焼」

「はいはい」

「タケ、からあげ食え」

「はいは、え!?ちょっ、待ッ、むごぉっ!?」





オアシス=保健室へと何とか辿り着いた瀬那の制服はよれよれだった。今日はまだマシな方であって、酷い時はボタンが引きちぎられることもある。
その度に怒鳴るのを耐え、なんとか女子の群から逃げきった瀬那は既にストレスを溜めこんでいる。
その腹いせは全て淳へと向けられるため、その2人のやりとりは今に始まったことではない。―――ではないにしろ、やはり少しだけ不憫に思う事もある。

自分のお弁当を食べてる最中だった淳は瀬那によって強引に口の中に詰め込まれたからあげを必死になって飲み込もうとしている。
あやのが微笑しながら彼にお茶を差し出し、茜はケラケラ笑いながらその背中を容赦なくバッシーンと叩いては彼は大きく咽る。
かなり可哀想な状態になっている淳に手を差し伸べようとあわあわする悠梨だが、隣に座る瀬那の溜息を聞いてはそっちが気になってしまう。

今日は自分で作ってきたというお弁当をちょびちょびとしか食べていない。空腹よりもストレスの方が大きいのだろう。
少し考え込み、悠梨はおずおずと瀬那の腕にツンツンと指で触れた。





「あ、の、瀬那君」

「何だ?」

「よ、良かったら…コレを」





彼女が差し出したのは食べやすいようカットされたリンゴ。可愛らしい爪楊枝に刺したそれを瀬那へと寄せる。





「あ、甘いものを食べたら気分も楽になるかと…お、思って」

「……………」

「……あ、あのっ」





何も反応が返ってこない瀬那に慌てた悠梨はワタワタしながら見上げる。その瞬間―――――ぱくっ。
悠梨が差し出したままの状態のリンゴを瀬那は躊躇いなく口に含んだ。

しゃりしゃりと音が鳴る。

驚愕一色の瞳で見つめられているにも関わらず、当の本人は平然とした顔で一口では食べ切れなかったリンゴを再び口に含んで食べきる。
ぺろりと唇を舐める仕草。細められた瞳が一直線に自分を射抜く。あの澄んだ目が真っ直ぐ向けられている。
悠梨は硬直したままカッと頬を真っ赤にしてパニック。突然真っ赤になった彼女を不思議そうに見やる瀬那に、とうとう耐えられなかった外野が勢いよく動きを見せた。





「ばばばばばばバカですかお前はー!!」





ぱしーん!同じく顔を赤くした淳の鉄拳が瀬那の脳天に炸裂する。

叩かれた理由が分からない瀬那は突然の攻撃にイラつきを見せ、鋭く尖った睨みで淳を見据える。
ビクゥッと怯える淳だが、そうも言ってられない。何故なら今の瀬那は天然タラシの他、何ものでもないからだ。





「お、おまえ、はっ……恥ずかしげもなく何やってんだよ、ええ!?」

「…何を喚いてるんだお前は」

「何を喚いてるんだじゃねェッ!!おまっ、お前はっ、今っ、とんでもないことをしでかしたんだぞ!それを無自覚でいるとかどんだけぇぇぇっ!?」

「煩い騒ぐな。あと、何で顔赤くしてるんだ?…風邪なら俺にうつすなよ。色々迷惑だし」

「言うに事かいてそれか!?お前今、川崎さんに何した!?言ってみろ!」

「…リンゴをくれるって言うから貰った」

「貰った?いや、違うね。今のお前は貰ったんじゃない。【あーん】したんだよ、【あーん】!!」

「?」

「”?”じゃねーよ!!どんだけ鈍感なんだよお前!ちょっとは川崎さんの気持ちも考えろよ!見ろっ、お前のせいで硬直したまま真っ赤になってんじゃんか!!」





煩いくらいの淳の促しに渋々従った瀬那の視界に映ったのは本当に真っ赤になったまま固まっている悠梨の姿。
今にも爆発してしまいそうなほど紅潮しているのを見ると逆に心配になってくるほどだ。

慌てて彼女の介抱をする茜とあやの。
今悠梨を”ああ”してしまったのはどうやら自分らしい…。それだけ認識はするものの、何故顔を赤くしているのか分からない瀬那は再び考える。
そして脳裏を過るいつかの出来事。それはまさに今と同じ状況になってしまった回想だった。





『美味いだろ、この焼きプリン。お気に入りなんだ』





少し前に事務所でお気に入りのプリンを悠梨に分けてあげた時だ。その時は今とは逆で彼女に差し出したのは自分。
しかし、それは決して悠梨自ら【あーん】をしにいったワケではない。
その時も瀬那の意思で彼女に【あーん】をし、その後何事もなかったかのように自分も同じスプーンを使用して続けて食べたのだ。

確かその時も悠梨は顔を真っ赤にさせ、そして【S.B】メンバーに煩い位に注意をされた(特に吹雪に。)
そこまで思い出すと瀬那は「あー…。」と言葉を濁しながら頬をかく。
あれだけ言われたのにも関わらず自分は同じ事を繰り返してしまった。鈍感だ鈍感だとは耳にタコが出来るほど言われている。
ここまでくると重症なのでは…。瀬那は未だに顔を赤くして固まったままの悠梨を一瞥し、心の中で「ごめん。」と謝罪した。





「ったく。燈弥がいればまだストッパーになってかもしれなかったな。こんな時に限ってあいつは友達と食べるし…」

「フフ。嘉山君ってばナチュラルに動くから、こうやって数多くの女の子達は落とされていくのね」

「嘉山君って、周りの人には察しがいいのに、自分のことにはとりわけ疎いんだね」

「ごめん…。メンバーにもよく言われるから注意しようとは思っていたんだが…」

「毎回唐突だもんな、瀬那のそれ」

「悪い、悠梨。以後、気をつける」

「あっ、いえっ、う、うんっ」





最早自分が何を言っているのさえ怪しい状態の悠梨は、結局食事を終えてからも顔の熱は冷めないままだった。



職員会議が終わって保健室に戻ってきた担当の河井に挨拶を終えた一行だが、瀬那だけは担任に呼び出され一時そこで解散。
先に教室へ戻った悠梨達は昼休み終了のチャイムがなるまで雑談をしていたが、チャイムが鳴っても、授業担当の教師が来ても瀬那はなかなか戻ってこない。
ついには出席をとる頃になっても彼は姿を現すこともなく、教師は不思議そうに瀬那の席を一瞥しては不意に隣の席の悠梨へと視線を向けた。





「川崎。確か嘉山と仲良かったな」

「へっ?あ、あの…?」

「何処に居るか分かるなら連れて来てくれないか。彼、仕事の都合とは言え、出席は少しでもとっておいた方がいいだろ」

「あ、はいっ。わかりました」





直に席を立つ悠梨を見送ろうと振り返った茜のニヤニヤした笑みとあやのの微笑を目にした彼女、は再び頬に熱を感じながら慌てて教室を飛び出した。
「廊下は走るなよー」と教師の声を背中で受けながら早足で廊下を進む。





(もうっ。2人して意地悪なんだから)





頬を手で押さえながら階段の手前で足を止める。
さて、自分はこれから何処へ行くつもりなのだろうか。瀬那を捜して連れていく必要があるが、如何せん、彼が何処にいるか分からない。
ポケットを探っても携帯は鞄の中のため教室に置きっぱなし。これでは彼と連絡も取れない。
それに、今また戻ったところで茜達の言葉無い笑った視線に耐えられるとは思えない。

どうしたものか…。暫く思案し、別れる直前に瀬那が担任に呼び出されたことを思い出し、その足は自然と職員室に向かった。




「え、嘉山?あいつなら校長先生に呼ばれて校長室に行ってたけど……どうかしたのか?」

「それが、まだ教室に戻ってなくて…」

「そうなのか?うーん…俺これから出ないといけないし……あ、そうだ。校長先生隣の部屋に居るから聞いてこいよ。教えてくれるんじゃないか?」

「は、はい。わかりました」





悠梨は担任に一礼して職員室を出ると隣にある校長室のドアをノックする。すぐに返事はやってきた。
少しの緊張を胸に抱きながら悠梨はゆっくりとドアを開けた。





「失礼します。2-Aの川崎と言いますが、今よろしいですか?」

「ああ、構わないよ。さあ、入って入って」





快く迎えてくれた校長は保健室の担当である河井と似たおっとりした雰囲気を持つ人柄だ。
穏やかな微笑を浮かべ悠梨を手招いた彼は改めてイスに座り直し彼女を見詰めた。





「それで、川崎さんだったね。私にどんな用かな」

「あの、嘉山君がまだ教室に戻ってきていなくて。校長先生ならお昼休みに嘉山君とお話しされてたと聞いて何か分かるかと…」

「ああ、瀬那君か。勿論知っているよ。彼にはね、今、体験してもらっているんだ」

「体験、ですか?」

「そうだよ。…実はね、【空中庭園】が予想以上に早く完成して、彼は今そこに居るんだ」

「え!?そ、そうなんですか?」

「瀬那君は【空中庭園】の完成を心待ちにしていてくれてね。昼休みに彼を呼んだのはそれを知らせるためだったんだ。…良かったら君も見てくるかい?」

「えっ?」

「君達の授業は確か科学だったね。波野先生には私から言っておくから、ちょとと見てきなさい」

「で、でも、あの…っ」





穏やかな笑顔を浮かべていてなかなか強引な校長は、おどおどしている悠梨の背中をズイズイ押し、道だけ教えて校長室から出してしまう。
人は見かけによらないものだ。胸中で何度も頷きながら悠梨は校長に教えてもらったばかりの道を進むほか選択肢は残されていなかった。


授業中のため静寂に包まれた廊下を進み、一旦裏庭に出て真っ直ぐ進む。
以前までなら少し進んだところに標識が立てられていて【庭園建設中につき、立入禁止】と注意書きがあったが、今では取り外されている。
緑に囲まれた道を進むと開けた場所に出る。そこに大きく姿を現したのはまるで鳥かごをイメージされた建物―――これこそが【空中庭園】だ。





(こ、この中に瀬那君が…)





幻想的な造形と、それに似合った周りに生い茂る木々達。時々小鳥のさえずりが聞こえるなか、彼女はゆっくりとその扉に手を伸ばした。
キイ…と音が鳴る。
見上げたそこは天井がとても高く、そして広い。空中庭園の中も自然があり、中央には立派な大きな樹木。

まるで絵本の中に出てくる風景のひとつだ。感動のあまり言葉が出ない。溢れかえる幻想的風景を暫くの間見渡しながら歩くと、突然何かに足がとられた。
小さな悲鳴を漏らしながら倒れ込む。しかし何故だか痛みはない。芝生のお陰だろうか。
不思議に思いながらゆっくりと目を開けるが、直後、悠梨は硬直する。何故なら――――――。





「せ…っ」





(瀬那君…!!!)





なんと悠梨は瀬那の上に倒れこんでしまったのだ。
今の状態はまるで彼女が瀬那を押し倒していると見られてもおかしくない図だ。

それなのにも関わらず、瀬那は身動きひとつせずに穏やかな呼吸を繰り返すだけ。そう、彼は熟睡しているのだ。信じられないことに。
割と衝撃があったと思ってもおかしくないはずなのに、彼は全く目を覚まさない。
しかもここだけの話、こんな幻想的な風景の中で眠る瀬那は、まるで物語に出てくる王子そのものだ。

少しでも動けば息がかかってしまいそうな程に近い距離。そして彼の胸に置かれている自分の手。少しだけ触れあって重なっている体。
徐々に体温が上昇をみせる悠梨の顔は最早沸騰する勢い。心臓もバクバクと激しい動きを見せ、落ちついてなんかいられない。





(は、早く退かなきゃ、いけない、のに…!)





分かってはいるのに体は動いてはくれない。矛盾している自分にも今の状態にもパニックになってまともな考えが浮かばない。
どうしようどうしようとグルグル考えてる内に、とうとう下で寝ている瀬那が動きを見せた。





「………ん…、なんか……重、い…?」





がーん!というショックと、ごめんなさいと謝りたい衝動が同時に駆け廻る。
余計に満足な対応も出来ないまま硬直していた悠梨は瀬那の意識が完全に覚めそうになった直後、バッと身を翻して退く事に成功した。

のっそりと身を起こし目元を擦りながらゆっくりと辺りを見渡す。徐々に視界が開けてきた頃、瀬那は漸く悠梨の存在に気が付いた。





「……いつから居たんだ、お前」

「…………」

「……悠梨?」





彼は知らない。何故彼女の顔が真っ赤で、固まっていて、無言で、しかも金魚のように口をぱくぱくさせているか。
彼女の目の前でヒラヒラと手を振ってみせるが無反応。ふむ、と顎に手を添えて考えた瀬那は右手で彼女の頬に手を伸ばし―――みょーんと引っ張った。





「いっ、ひゃいっ、れふ…!」

「やっと反応した」

「!? ひぇ、ひぇなふん…っ!?」

「ぶはっ。…ははっ。面白い顔だな、今のお前。傑作だ」

「!!!」





無邪気に笑う彼を見るのは久しぶりかもしれない。自分の顔が可笑しいと言って笑っているのに、笑われているのに、それでも悠梨は怒ったりしない。
ただ彼の子供っぽい笑顔から目が離せず見入ってしまう。普段がクールでカッコイイのとギャップに、こういう可愛い一面は心臓を掴んで放さない。

瀬那が笑い過ぎて苦しそうになりだした頃になって漸く悠梨は彼の手から解放され、別の意味も含めて赤くなっている頬をゆるゆると撫でた。





「い、意地悪です…瀬那君」

「お前が俺を無視するからだろ」

「む、無視なんて…!」

「何でか知らないが硬直してたし、顔は赤いし。…で、何があってそうなってたんだ?」

「い、いくら瀬那君でもそれは言えませんっ」

「何だそれ」





熱が引かないままブンブンと顔を振って否定する。瀬那は相変わらずの鈍感っぷりで彼女の心境を察することもない。
今だけは彼が鈍感でよかったと心から思う悠梨は何度か深呼吸して落ち着いたところで、改めて周りを見渡した。





「…きれいな所だよね、ここ」

「ああ。陽辺りが良いし、静かで、落ちつく」





葉や木々の間から注がれる木漏れ日。少し遠くから聞こえる穏やかなさえずり。
こんなに静かで気持ちの良い場所ならば誰もが眠ってしまうだろう。瀬那が昼寝をしていたのも分かる。

悠梨はゆっくりと目を瞑って耳を澄ます。時折聞こえる風の音が更に安心感を与え、まるで本当に森の奥にでもいるような錯覚さえ起こす。
心地良い空間。憧れの人と2人きりだというのに、悠梨の心はさっきとは打って変わって海が凪ぎいたように落ち着いていた。





「此処、生徒達に開放するのは夏休みが終わってからなんだ」

「そうなの…?」

「校長先生がそう言っててさ。思う存分安らいでおいでって、鍵まで貸してくれたんだ」

「瀬那君って…校長先生と仲良いんだね」

「ああ…。なんでか、昔から大人受けが良いんだ、俺」





チャラリ…と鍵を揺らしながら瀬那は再びごろりと寝転がる。
隣からじっと見上げられ、ドキリと心臓が跳ねては再び顔に熱が集まり始める。





「お前も寝れば…?」





思いもよらない瀬那からの誘い。
”ちょいちょい”と小さく自分の隣の示されれば断れる筈もなく。

バクバクと高鳴る鼓動を感じながら、どうしようと慌てる。





「……悠梨」

「っ、」





―――ツン。ブラウスの端を指で抓んで引かれる。

これには悩んでいた自分は完全に白旗を上げるしかなくなった。
上目使いでじーっと見上げてくる瀬那の無言の訴え。断れるはずがない。ついには真っ赤に染まった頬のまま悠梨はゆっくりとその場に身を寝かせた。

すぐ隣に在る存在。ほんの少し手を伸ばせば触れられるほど近い距離。
きっと横を向けば視界いっぱいに彼の顔が覗きこんでくるだろう。今の状態でそんなことをされてしまえば落ち着いてなんかいられない。
けれど、気になる。気になってしまうんだ、真横にいる彼の存在が。
だから振り返る。すぐ隣にいる、彼をこの目に納めるために―――――…。





「……………っ」





優しい木漏れ日が注ぐ空間で瀬那の青い髪がきれいに馴染む。
ただでさえ整った顔が余計に眩しく見え、まるで絵になるその横顔は完全に悠梨の言葉を呑みこませた。





「……デジャブになりそうだが、一応言っとく」

「え…?」





上を見ていた瀬那の顔が自分に向く。深海色の瞳が真っ直ぐ射抜く。
ドクンと一際大きく跳ね上がった胸の音を聞き届け、悠梨は彼が発するであろう次の言葉をじっと待った。

それに反し、瀬那は少し意地悪な顔をして笑う。





「俺の顔に何か付いてるか?」

「…!!!」

「…いや、だから、今更逸らしたところで遅いって」





まるで朝の出来事をそのまま再現され、しかも今度は顔を隠す物が何もないという状態。
完全に成す術を失った悠梨はまた顔を赤くして慌てて慌てて、ついには―――――。





「……あのなぁ、悠梨」

「…っ、な、何ですか」

「…俺の手を使っても顔は隠しきれないと思うぞ」

「うぅぅ…っ。今の瀬那君、すごく意地悪だよ…っ」





そう言ってもこれ以上真っ赤な顔を見られたくなく、悠梨は何を言われても瀬那の手を放そうとはしない。
そんな彼女のいっぱいいっぱいな姿が彼のツボを突き、瀬那の表情は再び無邪気な笑みへと変わる。

彼の手の隙間から覗き見るその笑顔はやはり彼女の心臓を掴んで放すことはなかった。






























結局2人はあのまま本当に昼寝をしてしまい、授業に出ないまま放課後を迎えてしまった。
遅く戻ってきた2人を迎えた茜たちは悠梨を囲んで根掘り葉掘り聞き出そうとする。その度に隠し事が下手な悠梨は顔に出してしまって更にからかわれる。

そして瀬那の下へは淳と、彼の帰りを2年の教室にやってきた燈弥が迎えて問いただす。今まで何処で何をしていたのかと。
瀬那は少し思案するとただ微笑を浮かべるだけで「何処だと思う?」と意地悪い返答。
全く教える気の無い瀬那に痺れを切らした淳は茜たちと同様に悠梨に白状させるために突撃。

困り顔の彼女と目が合った瀬那は静かに口元に人差し指を当てて微笑むだけ。
隣でその仕草を目にした燈弥はどこか楽しそうにくすくすと笑った。





「…何が可笑しいんだ、燈弥?」

「んーんー。なんでもなーい」





最初はまるで別の世界の人だと言わんばかりの距離があったのに、今では本当に普通になっている。
瀬那と悠梨の間にある絆は偽りないものだと燈弥はどこか嬉しそうに見つめた。




「…で、本当は何処でお昼寝してたの瀬那?」

「そうだな…。今度、燈弥も連れてってやるよ。俺のお気に入りの場所に」

「っ、うん!」





瀬那は本当に仲間思いの優しい人間だ。
好きなものや大切なことは、きちんと伝える。大事な仲間には決して嘘などつかない。
それをもう分かり切ってるからこそ、燈弥は隠すことなく今の嬉しさを淳に思い切り打ち明けるために彼の背中に突撃した。





「聞いてよタケジュンー!オレ、今度瀬那とイイトコに行くんだー!」

「はあ!?何だよそれ!何処だ何処!?」

「口の緩いタケジュンには絶対教えてあげなーい!」





―――「ねえ、先輩?」

ワザと悠梨の手を引きそう尋ねる燈弥。
少し躊躇いつつも瀬那へと視線を配った彼女は彼の優しい表情を目にすると元気にハッキリと頷くのだった。





「うんっ。瀬那君が許した人だけ行ける場所だよ」





久しぶりに訪れた学生らしい学校生活。その中で生まれた柔らかな時間は確かに瀬那の心を癒していた―――…。





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