時計が朝6時を過ぎたころ、川崎かわさき家の台所からは小さな音がカチャカチャと鳴っていた。
肩より少し長いオレンジ色の髪を頭の上で結わって、卵を手早く混ぜ、予め温めていたフライパンに流し込む。

じゅわっと音をたてたそれを手際よくくるくると形を整え、しっかりと火を通してからお皿へとうつす。
切れ味の良さそうな包丁を片手に火傷をしないように均等に切り分け、そのままお弁当箱へと並べて行く。





「うん。出来た」





満足に頷いた彼女の視線の先には、出来上がったばかりのお弁当が2つ。一つは自分用、そしてもう一つは。





「あれ…悠梨ゆうり?もう起きてたの?」


「あ、お母さん。おはよう」





昨夜急に「今日は帰る」と電話で言って、夜中を過ぎた頃に疲れきった顔をして戻ってきた母・夏苗なつえ

彼女は有名芸能事務所【Pectillペクティル】の社長を務めており、
ほとんど家に帰ってくる事はなく、多忙な毎日を送っている。

父は夏苗に比べては家に帰ってくる割合は多いが、彼も大きなスポーツ店を経営しているため多忙だ。


そんな2人の事情を受け入れ、ほとんどを一人で過ごしている悠梨だが、彼女は文句も不満も言わず、2人の安否を心配している。

そんな娘に申し訳ない気持ちもある両親は、出来るだけ休日は家に帰る様にしている。
だが、夏苗に限ってはそれも難しくなる一方で、悠梨の世話はほとんど父の情雄なさおが見ている。





「お母さん、お昼からまた仕事でしょ?これ、よかったら途中で食べて。お弁当作ったから」


「ありがとう、悠梨」





まだ眠たそうな目を擦りつつ、優しい娘の頭をそっと撫でる夏苗。悠梨はこんな時、母親の存在が温かく思った。

普段はあまり一緒に居られないけれど、時々こうして帰って来てくれた時は優しい言葉をくれる。
それがなんだかくすぐったい気持ちになり、悠梨は照れながらも料理で使った食器の片付けにうつった。


時刻は7時を回ろうとしている。

テキパキと片づけを終えた悠梨は、自室に戻って制服に着替え、鞄にお弁当を詰めては朝食をとった。
今日は久しぶりに母と2人の朝食。少し照れくさい気もしたけれど、悠梨の表情はとても嬉しそうに笑みを浮かべていた。




















母と楽しい朝食を済ませ、いつもより早く家を出た悠梨はまだ時間に余裕がある事を確認し、いつもとは違う通学路を進んだ。
普段は真っ直ぐ住宅街を抜けて学校へ行く彼女だが、今日はその道を一つずらした方へと歩く。

住宅街を抜けると、だんだんと商店街が見えてくる。
たまに寄り道して本屋さんや喫茶店に寄る事もあるが、今はまだ早い時間帯なため、何処の店も閉じている。


しばらく静かなそこを歩いていくと、だんだんと開けた道に出てくる。
そこは大通り。先ほど通っていた所よりも人の数は増え、同じ制服を着た生徒達も見る。

悠梨は学校へ向かうのに必ず渡らなければならない横断歩道の前で立ち止まり、信号が青に変わるのを待つ。

目の前を何台かの車が通り過ぎると、車専用の信号が青から黄色へと変わる。
もう直だと思って視線を向へと向けた時、彼女の視界には特徴ある後姿が目に入った。





(あれって…!)





風が吹く中、軽やかに髪をなびかせて歩くその姿に、悠梨は思わず信号を確認する前に駆けだす。

はっと気づいて慌てて信号を見れば、既にその色は青へと変わっており、向側から此方へと渡ってくる人たち。
ほっと安心して止まりかけていた足を再び速めれば、彼女は優雅に歩くその姿に思わず声をかけた。





「あの…、嘉山かやま君!」





彼女の声に動かしていた足をピタリと止め、不意に肩越しで振り返った彼―――――――それは彼女の期待通り、瀬那せなだった。





「ああ。おはよう、川崎さん」





風に身を任せるように体ごと振り返った彼は、朝の淡い陽射しを浴びて、ただでさえ整った顔が更にその美形度を増す。
思わず目をそらしそうになった悠梨はなんとかその衝動を堪え、眩しすぎる彼の優しい微笑みになんとかもう一度挨拶を返した。





「きょ、今日は早いんだね」


「うん。今日は落ち着いた朝を迎えられて、久しぶりに快適な目覚めだったんだ」


「へ、へえ…」





瀬那は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、隣に並ぶ悠梨と会話をしながら止めていた足を再び動かす。
悠梨もそれに習って歩き始めれば、彼が今話した意味深な内容に小さく首をひねった。





(久しぶりに快適な目覚めって…。普段はどんな目覚め方をしているのかな…)





ちらりと隣に並ぶ憧れの存在に目を向ければ、彼はまっすぐ前を見据えたまま優雅に歩く。

彼が通るたびにすれ違った人(特に女性)がよく振り返るが、彼はそれを気にすることなく進む。
そして、ふと視線に気づいたように悠梨へと目を向ければ、彼はふわりと微笑みを向けた。





(はうっ!!)





学園一の、そしてそのアイドルで王子様的存在の彼の笑顔が一直線に自分へ向けられた悠梨は今度こそ彼から顔を逸らす。

胸を押さえて速まる動悸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返すも、
彼女のその突然な行動に心配をした瀬那は、彼女の心境を知らずに背中を摩ってくれる。

それにより更に鼓動が早まった彼女は、彼は意外にも天然だという事を思い知らされたのだった。


しばらくして、なんとか学校までたどり着いた悠梨は教室へ行くと友人の茜とあやのが出迎えてくれた。

2人は彼女の隣に瀬那が居る事に少し驚きを見せるも、彼の口から「途中で会ったんだ」と説明を受けると納得したように頷いた。
悠梨も彼の言葉に小さく頷き返すと、安らぎを求めて自分の席へと腰掛けた。

季節はまだ春だが、彼女の体温は隣の席の彼によって随分と上げられてしまったため、下敷きを持ってパタパタと仰ぐ。





「どうしたの、悠梨。暑いの?」


「あはは…。ちょっとだけ」


「あらあら。珍しいわね。悠梨ちゃんがこの時季に暑がるなんて」





「どうしたのかしら?」と呟きながら、あやかの視線は瀬那へと向けられる。


それに気づいた彼は一瞬きょとんとするも、しばらくして「…やっぱり、僕のせい?」と悠梨に視線を向けた。

それには悠梨も驚きを覚え、やっと落ち着いてきた鼓動が再び加速する。
恐る恐ると彼に目を向ければ、彼の瞳は不安定に揺れており。

悠梨は瀬那に迷惑をかけたくないがため、直に彼の言葉に否定に意味を込めて首を振った。





「ち、違うよ!嘉山君のせいじゃないよっ」


「でも…僕と登校してる時、苦しげな表情してたよね?」


「そ、それはアレだよ!えっと、その……ご飯、そう、朝ごはんを食べすぎちゃったから!だからちょっとお腹が苦しくて」


「…つまり、満腹すぎて苦しかった、って事?」


「そう!だから嘉山君が気にするような事は何もないよっ」




これで何とか誤魔化せたはず!そう思った彼女は不安そうな表情から笑みをへと変わる。
そんな悠梨をただ呆然と見ていた友人2人と瀬那は、しばらく無言でいたものの…不意に小さな声が彼女の耳に届いた。





「え?」





思わず声の方へと目を向ければ、そこには口元を手で押さえて顔を逸らしている瀬那の姿。

どうしたのかと声をかけようか躊躇っていると、不意に後ろからも同じような声が聞え、
振り返れば友人2人までもが同じように口元を押さえて肩を微動させていた。


何故3人とも似たような事をしているのかと一人置いてけぼりにされた気分を味わう悠梨は、
訝しげに3人を交互に見やった。すると―――――――。





「あははっ。悠梨ってば最高ー!」


「…え?」





突然傍で笑いだした茜に、意味が分からず目を白黒させる悠梨。
すると彼女につられてか、あやのまでも笑いだし、悠梨は笑い続ける2人を呆然と見つめていた。

そんな時、勢いよく教室のドアが開き、そこから薄く汗を滲ませたじゅんがやってきた。
彼もまた笑って苦しそうにしている2人を見て不思議そうに首をかしげた。





「どうかしたのか?この2人」


「それが私にも分からなくて…」





悠梨は困ったような、複雑な表情を浮かべながら未だ笑い続けている2人から隣の瀬那へと視線を向ける。
それに続いて淳も彼へと目を向ければ、おもむろに彼の顔を覗きこんだ。





「なんだ。お前も笑ってたのかよ、瀬那」


「えっ?」





淳の言葉に目を張って彼を見つめる悠梨。
瀬那は小さく笑いながらも彼女たちと同様に肩を微動させて笑いをこらえていた。





「淳。いきなり来てバラさないでほしいな」


「だって何で3人して笑ってんのか気になるじゃんか!俺にも教えろ!」





つまらなそうに文句を言う淳に、瀬那はかけていた眼鏡をはずして目元を拭う。
薄っすらと浮かんでいた涙を指で拭きとると、改めてそれをかけ直した。

あまり見ることのない彼の素顔。眼鏡を外した状態のそれは、悠梨にとっては鼓動を大きく揺るがすのに十分なものだった。


ほんの一瞬の出来事だったが、眼鏡があるのと無いのじゃ印象はやはり変わる。

眼鏡をかけた状態の彼は本当に優等生で真面目な印象を受けるが、僅かな時間だけ外したその素顔は、
かけていた時のとはまた別の印象を感じさせられた。





「こらー。チャイムはとっくに鳴ってるぞ。自分の席に戻れー」





担任の声が耳に入り、時計は確かにHRの始まりを示していた。

それに不満そうな顔をしながら渋々席に戻っていく淳と、満足そうに笑みをうかべていた友人2人。

結局、悠梨は何故彼等が笑っていたのか分からず終い。
疑問は残るものの、HRの内容がもう直行われる行事【時雨祭】だったため、悠梨は思考をそちらへと集中させる事にした。


【時雨祭】とは『梅雨』をテーマにした作品をクラス毎に発表する行事。
これは2年に1度行われる行事なため、多くの生徒達から一目を置かれている。




「君たちも初めての行事だが、要はテーマに沿ったものを発表すれば良い行事だから、あまり深く考えなくて良い」


「先生。それって何でも良いの?」


「絵だろうが劇だろうが、とにかく『梅雨』をテーマにしたものなら大丈夫だ」




5月初旬の今、時雨祭は6月10日に行われる。ちょうど1ヶ月後に控えた今週中には、その内容を決めておいた方が無難だ。

担任は簡単に行事について説明を終えると、黒板の前に学級委員の2人を出し、
彼等を中心に自分達が発表するものの案を出していった。

しかし、案は出るものの、これと言ってハッキリ決まったものはなく。
それぞれもっと良いアイディアを考えてくるようにと、朝のHRは終わりを迎えた。


短い休み時間が過ぎ、あっという間に授業は始まる。
刻々と時間は進み、ちらりと窓の外に目を向ければ、太陽の位置はいつの間にか変わっていた。

教卓で今時間担当の数学の先生が教科書を片手に黒板に書かれた数式の説明をしている。
悠梨は先生にバレないようにそっと時計へと目を走らせれば、それはあと5分で終了を告げる。

そっとお腹に手を当てれば、悠梨は静かに溜息を漏らした。
すると、不意に隣からクスクスと小さな笑い声が聞え、まさかと目を向ければ。


案の定、瀬那が朝と同様に口元を押さえて笑っていた。





「お腹、空いたの?」


「うぅっ…」





一番気付かれたくなかった相手に見事に恥ずかしい行動を見られてしまった悠梨は、隠せないままその頬を赤くする。
慌てて俯いて彼から顔を背ければ、瀬那は耳まで真っ赤な彼女に少しだけ身を寄せて。





「カウントダウンだよ」


「…え」





小声で囁かれた言葉に下げていた顔を上げる。
見上げた先に映る彼の微笑みにまたしても体温が上昇するも、彼が口パクで告げるそれに、悠梨は時計へと目を向けた。





(5…4…3…2…1…)





そこでタイミングがバッチリでチャイムが鳴る。

悠梨が瀬那を見るとほぼ同時に、教卓で授業の説明をしていた教師が授業終了を告げる。
それに口元に笑みを浮かべた瀬那は「…ね?」と彼女に向って、少し意地悪な笑みを向けた。





(…カッコイイ)





どんな仕草や、どんな表情をしても、瀬那は全て様になる。
悠梨はもやもやと浮かんでくる少しの悔しさと、瀬那に対する鼓動にひっそりとため息をつくのだった。

こうして迎えた待ちに待ってた昼休み。
悠梨は空腹を満たすために既に日常となっている茜とあやのの2人と共に机を向かい合わせた。





「はぁー…。やっと嫌いな授業から解放された…」


「茜は本当に勉強が嫌いね。それでは万年赤点は脱出できないわよ?」


「勉強が好きって思える奴の脳が知れないわ!……って、ちっがーう!誰が万年赤点だ、あやの!」





ギャーギャーと騒ぎ出した茜に、淡々と笑顔で嫌味を返すあやの。

しばらくそんな2人の様子を見ていた悠梨だが、飲み物を持ってくるのを忘れた事に気づき、
2人に一言告げて自動販売機のある場所へと向かった。


やってきたそこは購買の傍にある広場。
購買と近いため、そこには多くの生徒が賑やかに会話や昼食をしたりしている。

その中で悠梨は自動販売機へと行くとポケットからお財布を取り出し、必要な分だけ手に取れば、
そのまま見本がずらりと並んでいるそれをじっと見つめた。





「お昼時だし…お茶の方がいいかな…」





それともミルクティーとかジュース系にしようか。

一人うんうんと悩んでいると、右隣からドン、と何かにぶつかる音と。
そして男の子の「あ、悪い!」という声が聞こえた。


それに思わず視線を向けると、ちょうどガコンと落ちてきた飲料を取り出そうと屈んだ男子生徒の姿。
しかし、それに悠梨はハタと気づく。

静かに姿勢を戻し、顔を上げたそれは――――――――――あの瀬那だった。





「か、山…君」





思わず口から出てきた言葉に慌てて閉ざす悠梨。
しかしその時には彼の視線は既に悠梨へと向けられており。

どうしようと焦っていた悠梨だが、彼がふと見せた残念そうな表情に動揺を抑え込んだ。





「ど、どうかしたの?」





恐る恐ると声をかけると、瀬那は小さな溜息とともに苦笑を浮かべ
「コレ」と今しがた取り出したばかりのそれを悠梨に見せた。

彼が持つそれは牛乳パックに入ったイチゴミルク。

悠梨はそれをまじまじと見つめて彼へと視線を戻せば、瀬那は今度は困ったような顔をした。





「さっきいきなりぶつかられて、飲みたかったものとは別のボタンを押しちゃったんだ」





やれやれと言った素振りで肩をすくめ「どうしようかな…」と呟く瀬那。

悠梨は少しの間黙ると、彼が零した言葉に疑問を覚え、自然と言葉が口から出ていた。





「嘉山君って…甘いもの、苦手なの?」





彼女の言葉に一瞬目を見開く瀬那。
しかし、それは直に苦笑へと変わり、彼は素直に一度だけ頷いた。





「うん。実はね」


「意外…!普通に紅茶と一緒にクッキーとか食べてそうなイメージなのに」





素直な気持ちを話す悠梨に、小さく笑う瀬那。





「無糖なら平気だけどね。そういう川崎さんは?甘いもの好き?」


「う、うん!大好きだよ!だからお菓子も自分で作ったりするんだ」





彼女の言葉にまたしても驚きを見せる瀬那。
きょとんとする彼女を一瞥し、瀬那はにこっと微笑んで、手に持っていたイチゴミルクを彼女の手に置いた。





「え…?」





彼の突然の行動に今度は悠梨が驚く番。
パチクリと今自分の手に置かれたそれを見つめると、悠梨はオロオロと彼を見詰めた。





「それ、君にあげる」


「えっ」


「今言った通り、僕は甘いものが苦手だから」





そう言うなり、改めて別の飲み物を買おうとする瀬那。
悠梨は慌ててそれを止めると、さっきから手に持っていたお金をギュッと握り、彼に振り返った。





「嘉山君は何が飲みたかったの?」


「え?」


「これ、嘉山君のお金で買ったものだし。タダで貰うなんて出来ないよ。だから…」





そこで言葉を濁らせる悠梨。
憧れの彼を前に心臓がドキドキと騒がしい音を立てていて、同時に頬の熱も上がっていく。

徐々に視線も直視から、あちらこちらと泳ぎを見せる彼女に、瀬那は僅かに口を開き、
しかし、何も言わずにふわりと笑みだけを浮かべた。





「僕はこのお茶が欲しかったんだ」


「え」





彼の言葉に俯きかけていた顔を上げる。
ちゃんと彼を見上げれば、そこでは瀬那が人差し指で自分が求めたいた飲み物を指さしていた。

悠梨は彼の行動に自分の考えを悟ってくれたのかと思い、余計に熱を上げる。
けれどもいつまでも彼を見ているだけじゃ何も出来ない。

そう自分に言い聞かせ、彼が自分に気を使ってくれた事に喜びを噛みしめ、
悠梨は嬉しそうに彼が求めるそれを買った。





「お、おまたせしました」





おずおずと手に取ったそれを彼へと差し出せば、瀬那もすっと手を伸ばし、彼女が持つそれに触れた。

しかし―――――――。


同時に触れる、互いの指先。
悠梨は驚きと恥ずかしさにより、思わず手の力を緩めてしまった。





(―――――あ!)





気付いた時には買ったばかりのお茶は彼女の手から既に離れた場所へ。
もう直地面に落ちてしまう。

急いで拾おうと伸ばした手よりも先に、彼女の視界には別の掌が映りこんだ。





「ギリギリセーフ、だね」





悠梨の視界で地面に落ちることなく拾われたそれを握るのは、他の誰でもなく瀬那だ。

慌てて顔を上げれば、瀬那は一瞬だけきょとんとし、不意に苦笑を浮かべれば
悠梨の頭へと手を伸ばし、それを一掬いだけして流した。





「髪、乱れちゃったね」


「…っ」


「コレ、ありがとう。川崎さん」





いつも見せる穏やかな笑み。
瀬那は彼女にそれだけ残し、そのままたくさんの生徒の中へと消えて行った。

自動販売機の前で一人立ちすくむ悠梨は、そっと自分の髪に触れた。

伸ばした指先に触れるのは、先ほど彼に触れられた場所。
一度の触れ合いなだけなのに、何故かそこだけ熱をもつ感覚に襲われ、悠梨はしばらくの間そこから動けずにいた。


通り過ぎていく生徒には見えない様に。
ただただ、火照った顔の熱が収まる事を願って、悠梨は瀬那から貰ったイチゴミルクを頬に当てた。
























片手に紙袋を持ち、もう片方の手でペットボトルのお茶を持つ瀬那は、
階段を一人静かな音をたてながら登っていく。

歩くたびに揺れる深海色をした髪はゆらゆらと揺れ。ふと立ち止まったそこは屋上に続く扉の前。

紙袋の取っ手を手首にかけて、その手でズボンのポケットから一つの鍵を取り出した彼は
そのまま扉の鍵口へと差し込み、重たく閉ざされていたそれを開けた。


開けた先は柔らかな雲が浮かぶ青空。
程良い陽射しに目を細め、暗い空間から明るい陽の下へと足を踏み出す。

風の勢いに押されて閉ざされた扉は、少々大きな音を立てて閉まり、瀬那はそれを背中で確認すると
そのまま給水塔があるそこへと登り、落着きを求めて腰を下ろした。





「――――――…」





仰いだ空にはゆっくりとした動きで白い雲が流れる。

ぼーっとしたままそれを追いかけていると、不意に後ろポケットに仕舞っていた携帯が震え、
瀬那は肩を微動させてそれを取り出した。

画面を覗くと、そこには彼のよく知る人物の名前が浮かんで点滅している。





「…またこの時間帯か」





小さな溜息を零しつつも、未だ着信を示すそれを右手から左手に持ち帰ると、彼はそのまま通話のボタンを押した。





「もしもし…」


『あ、瀬那?俺俺!俺だけど!』


「……僕の知り合いに"オレオレ詐欺"は居ないはずなんだけど」





しばし間を開けてあえて明るい口調でそう返せば、電話の相手は少々焦った様子を見せる。
しかし、それは直に笑い声に変わり、瀬那の表情を呆れへと変化させた。





『聞いてくれよ、瀬那!俺のクラスさ、3・4時間目に体育やったんだけどよ、これがまたスッゲー面白くてよ!』





電話の向こうで話す相手は、どうやらとても気分が良いらしく、ハイテンション以外の何でも無い。
そんな相手に話を聞きながら、器用に袋から風呂敷に包まれた箱を取り出す瀬那。

何度か相槌を打ちながら右手で風呂敷を解き、弁当箱を取り出す。
パカッと蓋を開ければ、そこからは栄養バランスが細かく考えられた、そんな風に見えるお弁当が姿を現した。





『…んでさ!この俺が相手からボールを奪って、そのままダンクシュート!ってワケだ!』


「相変わらずな戦法だね。もっと違うやり方もしないと、相手に分析されるよ?」


『お前じゃあるまいし、そこんところは大丈夫だって!アイツ等、割と単純だし』





ケラケラと笑う相手は、尚も高いテンションのまま瀬那と電話を続ける。

だが、瀬那は相手の単純明快な行動パターンに呆れた表情を浮かべ…。
それでも器用に自分の口におかずを運んで行く。


大体お弁当箱の半分の食料が無くなってきた頃、不意に相手が話を変えた。





『あ、そうそう。昨日さ、吹雪ふぶきからメール来たんだけどよ…』





その瞬間、瀬那の瞳が僅かだが鋭くなった。
彼は相手に一度話を止めるよう声をかけ、肩越しに辺りを見渡した。

屋上には瀬那以外の人物は居ない。それをはっきりと確認してから、瀬那は相手に続けるよう言った。
電話の相手は彼のその行動に楽しそうに笑う。

瀬那は相手のその笑い声に眉間に皺をよせ、訝しげな表情を浮かべた。





「何が面白い?」


『あれ?もしかして機嫌損ねた?』


「別に…そんなんじゃない」





再び溜息まじりに呟けば、相手は怪訝そうな声色で瀬那に疑問を問いかける。
けれども瀬那は「何でもない」とだけ返し、話の続きをするよう促した。





「…で、吹雪が何だって?」


『おう!今度の休日、3人で遊びに行こうぜ!って話』


「………は?」





自分の予想していた内容とはかけ離れていた返答だったのだろう。
瀬那はしばらく間を開けた後、なんとも間抜けな声を発した。

しかし電話の相手はそれに気を止めることなく、次々とメールの内容を話していく。


今度の休日、午前から××駅の前で待ち合わせして、まずはボーリングを3ゲーム。
その後は軽く昼食を取ってカラオケへ。続いてゲームセンター。
この時点でまたお腹が空くだろうから食事を取り、その後はスポーツジムに行って、帰りは瀬那の家で夕食。


なんてスケジュールの組み方だろう。
瀬那は本日何度目かの呆れた溜息を零し、相手の楽しそうに話す声をただ耳にする。

しばらくそんなやり取りが続くと、瀬那はふと自分の腕時計に目を向けた。
後5分もしない内に5時限目が始まってしまう時刻だ。





「悪い、烈火。そろそろ授業が始まるから切るな」


『え?あ、もうそんな時間か。んじゃ、今話したこと、ちゃんと覚えとけよ!』


「…気が向いたらな」


『何言ってんだよ!これは既に決定事項!!当日お前の家まで迎えに行くからな!』





それだけ言うと、電話の相手であった烈火は言い逃げする様に電話を切った。
耳の奥でプープーっと鳴るそれに溜息を零した瀬那は、はたと我に返り、急ぎ足で屋上を後にしようと立ち上がる。

その瞬間、足元で何かが転がる音がし、反射的に振り返ると、そこには先ほど自動販売機で買ったお茶が。
瀬那は向いていた方向を変え、それへと手を伸ばすと、ふとあの時の事を思い出した。


それはまさに自分が自動販売機で缶コーヒーを買おうとボタンに指を伸ばした直後。
突然誰かも分からない男子生徒にぶつかられ、予想外の自分が苦手とする甘い飲み物のボタンに触れてしまった事。

ガコンと音がして、これはもう変えられないと諦めた心境で渋々取り出した。
その時だ。偶然にも彼女が自分に声をかけてきたのは。


それまで隣の自販機で彼女が居る事に気づいていなかった瀬那は、内心少し驚いていた。

けれども、そんな自分よりも彼女は何故か驚いた顔をしていたが、直に瀬那の様子の違いに気づき、
何があったのかと聞いてきた。





「…あまり表に出てないはずなんだけどな」





静かに目を細め、ペットボトルに入ったお茶を見つめる。
穏やかに吹く風に揺られながら、彼はふと口元に笑みを浮かべた。





「――――――――面白いな」





フ、と弧を描いた唇は、丁寧に開けられたペットボトルの入口に隠され、彼の喉は僅かに音を立てて上下する。
静かに一息つくと、彼はキュッと小さな音を立ててそれの蓋をしっかりと閉めた。





「さて…戻るか」





少し量の減ったお茶を行きと同じように紙袋に仕舞い、速足で屋上を後にする。
去って行った彼とは対照的に、空に浮かぶ雲はゆっくりと穏やかに空を泳いでいた。









































「あと3週間したら【時雨祭】ですが…。2年A組のみなさーん。何か良い案を考えてきましたかー?」





「もう2週間もアイディア出しで経っちゃってるんですけどー」と力なく呟く【時雨祭】実行委員の男子。

合い方の女子は誰かが案を出してくれるまで動かない気でいるのか、
片手にチョークを持ったままちゃっかりとイスに座っている。


【時雨祭】の行事説明を受けてからまるまる2週間が経過してしまった本日、
クラスメイト達は皆悩んでいるような、面倒くさいのか複雑な表情をいている。

悠梨は何か良い案は無いかと頭を巡らせるも、コレだ!といえる立派な案は浮かびあがらない。
うーんと眉間にしわを寄せて必死に考えている時、ガラリと教室のドアが開き、そこから学園の王子が現れた。





「すいません、先生。遅れました」


「おお、嘉山か。今【時雨祭】の案出しをしているんだ。お前も何かアイディアを出してくれ」





担任は彼の遅刻をさして気にした様子もなく、彼にも案だしの協力を願った。

あれから2週間も経っているが、何一つ皆が納得できる案は出ていない。
クラス中の視線が彼へと一気に集中する様を見ると、悠梨はその視線が大きな期待に満ちている事に気が付いた。


そっと隣の席に着いて黒板を見つめる瀬那に目を向けると、彼は顎に手を添えて口を閉ざした。





「――――――…」





しばし沈黙を守る瀬那の様子を見守っていると、不意に彼の視線が此方へと向いた。
それに思わず目を大きく開いて驚きを露わにすると、何故か彼も目を大きく開いた。

そして――――――――――。





「てるてる坊主…」


「え…?」





僅かな声で彼が漏らした声に担任が首を傾げる。
瀬那は悠梨を見つめ、一度だけ頷くと、再び同じ言葉を繰り返した。





「てるてる坊主を作るって言うのはどうでしょうか」


「て、てるてる坊主?」


「はい。【時雨祭】はちょうど梅雨の時期にやる行事ですし、タイミング的にも良いかなって」





ふと微笑みながら案を説明する彼に、クラスメイト達も納得を露わにする。
至極単純なものだが、『梅雨』をテーマにしたものだし妥当な案だ。

実行委員の男子生徒も助かったと主張しながら瀬那に感謝の言葉を投げ、瀬那は苦笑交じりに頷いた。





「けど、僕が言ったのは本当にあくまで簡易な発想だから、他にももっと良い案が…」


「よし!2年A組の諸君。我々のクラスは『THE てる坊、雨にも負けず』作戦で決まりだ!!」






活気溢れるクラスに、まさかこれがこんな簡単に決定されるとは思っていなかった瀬那は少しの驚きを露わにしている。
しかし、そんな彼に対し、先ほどまでどんよりしていたクラスは、彼の発案により明るさを取り戻した。

なんとも複雑な面持ちをする瀬那に、悠梨は何故先ほど自分が見られたのか気になって仕方なかった。





(さっき嘉山君が出した案…てるてる坊主は私を見ながら言ったよね。と言う事は――――――…)





その瞬間、悠梨の顔色は真っ青になった。





(もしかして私、嘉山君に"てるてる坊主"って見られてるのかな!?ひょっとして…坊主に見えるの!?)





ズーンと気を落とし、机に顔を伏せる悠梨。
クラスの中で一人だけ負のオーラを放つ彼女に、不意に誰かの声が掠めた。





「……単純な奴等だ」





その声にはっとし、思わず伏せていた顔を上げる。

悠梨の座席は、前は女子で、左右が男子に挟まれた形。
左の男子は近くの友人たちと話をしているため、呟くような事はしていない。

そしてあの声は絶対に女子のものじゃない。…だとすれば…。


おもむろに動かされる彼女の視線。
その先には言わずともながら彼が居る。





(さっきのって……もしかして、嘉山君?)





そう思った後、彼女は慌てて首を左右に振った。





(まさか。だって嘉山君はあんな事いう人じゃないし…)





きっと自分の気のせいだ。空耳だったのだろう。
悠梨はそう納得して賑やかになったクラスを見渡した。

さすればあやのと茜が此方へとやってきて、何やら白い布と新聞紙を悠梨へと渡す。
それに首をかしげると、茜は同じものを瀬那にも渡した。





「今から一人一つ、てるてる坊主を作りましょう!だってさ」


「委員長ったら、なんだか張り切ってるわね。嘉山君が案を出した途端、急変していたし」





楽しそうに笑って話す2人を見て、悠梨は彼女たちから受け取った布と新聞紙を見る。
この短時間の間にどうやって準備したのだろうか。すごく気になる。

なんて事を考えていると、隣からグシャッと何かを握りつぶす音がして、悠梨はビクッと肩を跳ねさせた。
バッと振り返れば、そこでは瀬那が貰ったばかりの新聞紙をクシャクシャに丸めているところで。

悠梨は音の正体に安堵を漏らすも、突然間近で聞こえた大声に再び肩をビクつかせた。





「見ろよ、瀬那!どうだよ、これ!!」





バタバタと元気よくやってきたのは淳だ。
彼は片手に白い布の塊を持ち、それをグイッと瀬那へと向ける。

ぱちくりと瞬きしながら目の前に持ってこられたそれを見つめると、瀬那の表情は呆れたものへと変わった。





「タケ。これは一体何?」


「何って…見ての通り"てるてる坊主"だろうが」





胸を張って自信満々で言う淳。しかし、瀬那の表情は変わらず、寧ろ歪みを見せた。
それはまるで淳の言葉を否定しているかのようで。

悠梨達3人はそれが気になり、淳に見せるよう言った。
そして快く許可した淳は、瀬那の時ど同様に自慢げにそれを見せてきた。





「どーだ!この立派なてるてる坊主!こんなにも逞しくイカした奴はこの世界中探してもコイツだけだ!」


「…そうね。世界中探してもコレだけだろうね」


「…なんというか。独創的…な、てるてる坊主ね。岳内君」


「だろ!?やっぱ分かる奴には分かるんだよなー。瀬那と違って!!」





後半をやたらと力を入れて行った淳に更なる呆れを見せる瀬那。

なんとも満足な顔をして自分のてるてる坊主を見つめる淳はきっと気づいていないのだろう。
先ほど感想を述べた茜とあやのの表情が瀬那と全く同じだという事に。


そんな淳を余所に、それぞれも自分なりのてるてる坊主を作り始めると、茜が「出来た!」と元気に告げた。





「見せて見せて、茜ちゃん!」


「いいよ。―――――だーん!どうだ、悠梨!"あんな物"と比べ物にならないでしょ!」





勢いよく見せてくれた茜作のてるてる坊主。
それを目にした途端、悠梨の目が点となる。

隣で手を動かしていた瀬那も、茜のそれを見ると苦笑を浮かべ。
だが、あやのだけはなんとも蔑んだ目を彼女へと向けていた。





「茜、アナタ……」


「な、何よ」


「美的センスが皆無ね。いえ、壊滅的というところかしら」





盛大に溜息をついて茜の作ったてるてる坊主を見つめるあやの。

それは今にも死にそうな顔をしていて、首元を輪ゴムで結われたそれは窒息死しているものにも見える。
茜はあやのの発言に反発するも、何もフォローが出来ない悠梨と瀬那は見て見ぬふりをして制作を続行。

そこへ余計な事に、火に油を注ぐ発言をかました淳が出てきて、茜は自らのてるてる坊主をその場で引きちぎった。


なんとも残酷なシーンだろうか。
淳はあまりの光景に余計に騒ぎ、茜を更に怒らせる。

しばらく騒がしくしていると、突然慌てた顔で教室へと駆け込んできた委員長。
どうしたのかとクラス中が視線を向ければ、彼は血相を変えてそれを告げた。





「み、皆ごめん!さっき【時雨祭】で行うA組の内容を書いた紙を提出に行ったんだけど、
 同じ考えをしていたD組の人達に先を越されて、違うものに変更しろって言われちゃった」





一瞬で静寂に包まれるA組。

漸く出来上がったと満足げ気にてるてる坊主の首にヒモをつけようとした悠梨だったが、
突然の委員長の発言に、それは空しくも結われる前にパタリと床へと力なく落ちて倒れた。





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