ぬるい風が肌を撫でる。
白いブラウスの上に紺色のベストで身を包む悠梨ゆうりは、ふと顔を上げた。

仰ぎ見た空はなんとも言えない中途半端な表情をしており、雲と雲の間から垣間見える空は
薄く灰色を浮かべ、いつもよりも重たい印象を持たせた。


そんな空とは対照的に、彼女の背中にかかる名を呼ぶ声は、とても晴れやかで明るかった。





「おーい!悠梨ーっ」





いつものように髪を一つに結わいだ状態で振り返った彼女が目にしたのは、昨日、
久しぶりの再会を果たした懐かしき友人・政史まさしだった。

一見、真面目で勉学専門な印象を見せる彼だが、実は明るく活発的な性格で、勉強よりも運動好き。
成績はどちらかというと良い方で、人気もそこそこある。
瀬那せなと比べてしまえば可哀想な結果だが…。





「あ、おはよう。政史君」


「お。ちゃんと名前で呼んでんな。関心関心」


「昨日あれだけ言われれば、さすがに言わざる負えないよ」


「え。それってまるで俺が強制的に言わせたような言い草じゃん!」





不貞腐れたようにムーと眉間にしわを寄せてじとりと悠梨を見据える政史。
悠梨は「冗談だよ、ごめんね」と苦笑交じりに告げれば、政史はふと一緒になって笑った。

2人の歩く速さはほぼ等しく、弾む会話に花を咲かせていると、丁度商店街を抜けた先にある交差点で
悠梨はふと見覚えのある後ろ姿に目を止めた。


一目見れば彼女の内側が騒がしくなる。
トクンとリズムよく跳ねた瞬間、彼女はその背に向かって駆けだした。その突然な行動に、政史は驚きの声を上げる。





「え、ちょっ、悠梨!?」


「ごめんね、政史君!また学校でね!」





それだけ言うと、悠梨は再び駈け出した。





「な、何なんだ一体…?」





呆然と見送ってしまった政史と別れてから、悠梨はまるで引き寄せられるかのように彼の背を追った。
こうして追いかけていると、彼が自分よりも速く歩いている事に気づく。
やはり足が長いと色々と便利だ。

悠梨はなんとか彼に追いつこうと一生懸命走っていると、彼が足を向けていた横断歩道の信号は運良くも赤へと色を変えた。
悠梨はそのチャンスを逃すことなく、一気に彼との距離を詰めた。





「っ、嘉山かやま君…!」





だが、口を開いたその瞬間、悠梨は歩道の僅かな段差につまずいてしまった。

小さな声が漏れる。
このまま地面に衝突してしまうと覚悟を決めて目を閉じた。しかし…。





(……あれ?)





直にでも襲ってくるはずの痛みは、全くかかってはこなかった。
どういう事かと恐る恐る閉じていた瞼を開ける。それと同時に、頭上から誰かの声が降ってきた。





「大丈夫!?」





その声に、彼女ははっとした。それは確かめるまでもなく、彼の声で。
悠梨は直様声の主を見上げた。





「嘉山君っ」





彼は悠梨の無事を確認すると、少し安心した顔つきになった。





「驚いたよ。急に声をかけられるからさ。振り返ったら、まさに君が転ぶ瞬間だったし」


「うっ…」





悠梨は一気に恥ずかしさを覚え、顔の熱を密かに上げた。
よりにもよって一番見られたくない人に恥ずかし現場を見られてしまった。

それを隠すべく顔を俯かせていると、再び瀬那が口を開いた。





「ところで、さ…」





悠梨はその声に顔を上げて、彼を見詰めた。
すると、今度は瀬那が困った表情を浮かべ、気まずそうに続ける。





「そろそろ良いかな…?このままで居たら学校に遅れちゃうかもしれないし…」





その時、悠梨はやっと自分が今置かれている状態に気づいた。
彼女は今、瀬那に抱きかかえられている体勢であった。





「ご、ごめんなさい…!」






その事実を目の当たりにした悠梨は一気に顔の熱を上げ、真っ赤になりながら急いで彼から離れた。
激しく動揺を見せる自分を落ち着かせようとも、それはなかなか上手くいかず。

どうしようと気まずい雰囲気を持つ悠梨だが、瀬那は然も気にすることなく彼女に声をかけてきてくれた。





「今からだと丁度良い時間に着けるね。良かったら一緒に行かない?」


「えっ」





思いがけない彼からのお誘い。
悠梨は呆気にとられたまま呆然としていたが、直に我に返ると慌てて頷いた。





「それじゃあ、行こうか」





先に1歩歩き始めた彼に、慌てて続く悠梨。
なんとか隣まで追いつくと、直に俯きかけた顔を上げて、





「あの、ありがとう。嘉山君!」


「…? どういたしまして」





少し首をかしげながら彼女のお礼に頷き返した瀬那の横顔は、いつもの穏やかな笑み。

時雨祭を残り2週間と追い詰められている状態だが、ここ最近、悠梨と瀬那はこうしてよく登校時に会う事が増えた。
例えそれが偶然であろうと、悠梨は嬉しい気持ちを隠しきれず、彼の隣でそれを素直に表している。

そんな彼女を横目で一瞥し、直に前へと視線を戻した瀬那の表情は僅かに穏やかさを消した。




















「おっはよー、悠梨。ねえ、知ってた?昨日の3時頃【Sky Blue】の特集やってたんだって」


「ええ!?み、見てない…知らない…っ」





学校へ着いて早々、教室に入ればあかねが元気よく悠梨に声をかけてきた。
その内容は彼女にとってとても惹かれるものであったが、後悔は大きい。

S.Bスカイブルー】のファンとして密かに彼等を応援している彼女にとっては、その衝撃は相当なものだった。
既に若干涙目になっている。





「ちょっと、茜。その話は控えた方がいいって、昨日言ったばかりでしょう?」


「いやー。だって悠梨の事だから、情報では知ってるかなって思って…」


「まったく。デリカシーが無いわね、本当に」





盛大な溜息をついてみせるあやのに、茜はイラ立った顔で言い返す。
そんな2人を余所に重たく深い溜息をつく悠梨に、まさに神の一声が下ろされた。






「ああ。それなら俺の姉ちゃんが録画してたよ」


「え!!」





神の一声を降らせた張本人・じゅんは、勢いよく振り返ってきた悠梨に思わず目を点にする。
けれども悠梨の勢いは衰えることなく、淳に掴みかかる勢いで彼に問い詰めた。





「それ本当、岳内たけうち君!?お姉さん撮ってるの?それ貸してもらえる?どうかな!?」


「え、や、ちょ、川崎、さん?」


「はいはい、落ち付きなよ悠梨」


「フフ。悠梨ちゃんは本当に彼等の事になると元気になるわよね」





よしよしと彼女を宥めながら淳から引き剥がすあやの。
何故か鋭く冷たい視線を向けるあやのに、淳は悠梨よりも彼女に無言の威圧をかけられている感覚を覚え、思わず後ず去る。

彼女の瞳は"なに勝手に悠梨ちゃんに近づいているの…?"と在らぬ誤解と矛盾を兼ね備えたプレッシャーであって。
淳は若干涙目になりながら、慌てて傍に居る瀬那の背中に隠れ、まるで子犬のように震えだした。


眉毛を八の字に下げて背中に隠れる淳を見つめる瀬那達を余所に、悠梨は「うーっ」と声にならない悔しさを表す。
彼女のそんな状態を目の当たりにしたあやのは、話題の言いだしっぺである茜を叱る。

その間一人静かに溜息をつく悠梨の元に、淳は再び近づいた。





「あのさ、川崎さん。もし良かったら、俺が姉ちゃんに頼んで貸してもらってくるけど…」





その言葉に悠梨が黙っているはずがなかった。





「本当?本当に良いの、岳内君!」


「う、うん。俺の姉ちゃん、イケメン大好きだから結構録画すること多いんだ。早ければ明日にでも借りてくるよ」





淳の思いがけない言葉に嬉しさを正直に出す悠梨。
その瞬間、再びあやのの鋭い視線を背中で感じ取った淳は慌てて彼女から離れ、再び瀬那の背後へ。

岳内の可哀想な扱いに同情の眼差しを向ける茜等を余所に、悠梨はウキウキと明日を待ち遠しく感じていた。





「それにしても意外だなー」


「何が?」


「川崎さんがSky Blueのファンだって事だよ」





瀬那の後ろからひょっこりと顔を覗かせながら話す淳に、彼の言葉に納得して頷くあやのと茜。

彼女たちは高校入学時から悠梨と友好関係を保っているので、普段はなかなか表に出さない悠梨の秘密をいくつか知っている。
その中でも彼女が過剰反応するのは、今話題沸騰中の人気アーティスト【Sky Blue】だ。


イケメン揃いで歌も技術も申し分ない、とよく雑誌にも取り上げられている。
どこを見ても彼等の姿や話題はあり、今や知らない人は居ないだろうと言われているくらいだ。





「で、そんな川崎さんはS.Bの誰が好きなの?」





淳が好奇心溢れた瞳で彼女を見つめる。
悠梨は彼の問いに一瞬戸惑うも、直に彼と同じくらい瞳を輝かせて答えた。





「私、ベース担当のASUKAアスカ君が好きなんだ!」





彼女が答えたその直後、淳は「ブッ…!」と吹き出す。

何故笑われているのか不思議でならない悠梨は、肩を震わせる彼をじっと見つめる。
何がツボにハマったのかは分からないが、いつまでも笑いをこらえる彼の脇腹に、瀬那は微笑みを絶やさないままチョップを決めた。





「グフッ…!あ、いや、なんというか…。あはは…お目が高いね、川崎さん」


「え?」


「だってS.Bの中で一番ミステリアスで素顔さえ分かってないあのASUKAが好きなんでしょ?
 なんて言うのかなー…。うーんと、モノ好き?」





刹那、再び瀬那から迅速的なチョップが脇腹におみまいされる。
一瞬の事で何が起きたのか分からない茜達は、彼にチョップされた脇腹を押えて苦笑を浮かべて話す淳をきょとんとしながら見つめる。

それでも悠梨は話題がASUKAへと変わった事で、瞳の輝きは増し、淳の苦しみに全く気付かない。





「確かにASUKA君って素顔は分からないし、どんな人かもハッキリしていないけど…。あの透き通るような声とか、
 ベースを弾いてる時のあのカッコよさとか、見るたびに心惹かれるんだ」


「ほほう」


「あとね。S.Bのメンバーを大人しくさせたり、たまにじゃれたりする姿とか見ると、なんだか嬉しくなるんだよね」





無邪気に微笑む悠梨の言葉に嘘など微塵もない。

それを分かっているのか、茜のあやのはそんな彼女を温かな眼差しで見つめている。
ああ、本当に大好きなんだな…と。





「成程ねー。…という事らしいけど、これを聞いてどうですか?王子様は」





いつの間にか瀬那の背後から隣へと出てきた淳が、ニタニタしながら彼の腕を肘で小突く。

明らかに呆れた表情を浮かべた瀬那だが、それはたった一瞬のこと。
彼に言葉を返す前に、瀬那は満面の笑みを淳へと送り「僕は一般の学生だから分からないや」と告げた。


いつもと全く変わらない彼の様子に何故か落胆する淳は、つまらなそうに瀬那を一瞥する。
にこにこと王子様スマイルを浮かべ続ける彼をしばらく見つめると、淳は諦めた素振りで彼から視線を外した。

直傍では楽しそうに会話を続ける悠梨達の姿。
クラスメイトの視線をいくつか感じ取れる中、瀬那は誰にも気づかれない程小さな溜息をそっと漏らした。





















教師の授業の説明が区切りのいいところまできた時、丁度授業終了と昼休みの合図の鐘の音が鳴った。
生徒たちはテキパキと教科書をしまい、さっさと昼食の用意を始める。

教師が教室を出て行った頃には、既に皆好き勝手に話始めており、隣の席の瀬那の元には
いつの間にかまた複数の女子が彼を囲んで楽しそうに話していた。





(相変わらず嘉山君はすごい人気だな…)





普段自分が話せる時間は限られている。
休み時間になると、彼の周りにはほとんど女子が囲んでおり、放したくてもその鉄壁の強さに敵わない。

それ以外だといつの間にか彼の姿は教室にはなく、場所を移動していたり。
話せたとしても2人きりという事は無いに等しい。


悠梨は薄っすらと溜息をもらしていると、突然教室のドアが勢いよく開き、





「おーい!悠梨居るかー?」


「ま、政史君?」





彼女が漏らした溜息を吹き飛ばす登場の仕方。
悠梨が彼の突然の登場に目を白黒させていると、政史はそれに気にも留めず、彼女の手を握って立ちあがらせた。





「なあなあ!折角再会したんだし、一緒に昼飯食おうぜ!」


「えっ」





いきなり現われ、続け様に昼食のお誘い。その連続で直に返答できないでいる悠梨を不思議そうに見つめる政史。

彼女はいつも茜とあやのの3人で仲良く食事をとっている。そのため、今日とてそれに変更はないと思われていた。
しかし、政史の誘いによってそれは生じてしまった。


どうしたものかと悩んでいる悠梨の元に、あやのが頬笑みを浮かべたまま近づいてきた。





「行っておいで、悠梨ちゃん」


「え、でも…」


「再会って言葉が聞こえてきたし…。折角の御誘いだもの。断る必要はないと思うわ」





あやのは悠梨の背を軽く押し、行ってらっしゃいと手を振る。
それに頷くと、悠梨はお弁当を持って政史と共に教室を出て行った。





「あれ。ねぇ、あやの。悠梨は?」


「懐かしのお友達と水入らずのランチよ」


「なーんだ。そ…」


「まあ、帰りが遅かった場合は…勿論黙っていませんけど」





「ふふふ…」と口元に手を当てて微笑むあやの。
その笑顔は穏やかだけれど、彼女の背後に浮かびあがるオーラはとてもじゃないがそれとは対比していた。

茜は胸中で悠梨の早い帰りを、ただただ願うばかりだった。




















重たい扉を開けた先は広大な空。しかし、その色はキレイとは呼べず、やはり朝と変わらぬまま曇っていた。
灰色が朝よりも濃くなりつつある。夕方には雨でも降るのだろうか。

悠梨が不安げに空を仰いでいると、一足先に中央へと歩いて行った政史が彼女を手招く。
淡い陽の光を僅かに注ぐその場所に2人して座ると、政史は早速と言わんばかりの勢いで弁当箱を開けた。

やはり男子だからなのか。おかずはほぼ肉類が大半を占めている。





「いただきます」





桃色の桜の1ポイントが付いたお箸を片手に食べ始めた悠梨は、まず初めに厚焼き卵を口にする。
向側に座ってやはりお肉にかぶりついている政史は、なんとかそれを飲み込んだところで改めて彼女に目を向けた。





「なあ、悠梨。1年の頃は何組だったんだ?」


「私はB組だったよ」


「Bかー。俺なんてH組だぜ?」


「じゃあ、教室変更がある前だから…」


「いっちばーん遠い教室。且つ、北校舎」


「…ご愁傷様?」





晴華学園は去年と今年ではクラスの場所が違っていた。
この学校は2つの塔に分かれており、今は1,2年の教室が1号館。3年と職員室があるのが2号館。

1号館はほぼ南にあり、音楽室や家庭科室もこの塔だ。
反対の2号館は北側にあり、図書室や体育館、食堂もある。
この2つの間には渡り廊下があり、購買もきちんと設置されている。

受験生ならではの配慮として、3学年だけは落ち着いて生活できるよう配慮されているのだ。


去年までの校舎は学年別に階ごとに分かれているだけで、南にはA〜D組、北にはE〜H組。
政史が使っていたH組は北校舎の中でも一番奥の教室で、下駄箱までの距離も最長だった。

遅刻ギリギリの登校をしてしまえば、決してセーフになる事はないだろう。
それだけ生徒たちの間でもH組だけはなりたくないと評判だったのだ。


そして今2人が居る屋上は南校舎の屋上。隣には間に距離は空いているが北校舎の屋上も見える。
去年にあった事や、今のクラスの話をしながら楽しい時間を過ごしていると、不意に政史が話題を変えてきた。





「あのさ、悠梨。お前って…その、好きな奴、居るか?」


「え…」





唐突な質問内容に、悠梨は本日何度めかの驚きを表す。
政史はそれを目にすると慌てて誤魔化し、目を泳がせながら付けくわえた。





「なんていうか、そのー…。あ、あれだよ!やっぱさ、高校生にもなったらそういった話題出てくるだろ!?」


「あ、うん、そうだね」


「俺のクラスの奴等、そんな話ばっかでさー。んで、もしかしたら悠梨のクラスもそうなのかなーと思って」





なんとかその場を包みつつあった怪しい雰囲気を誤魔化そうと振る舞った結果、
悠梨は政史の頑張りを受け入れるようにその話題に乗った。

といっても、おそらく彼女は彼の頑張りの意味を理解していないようだが。





「へー。やっぱりそういう話題って男の子の間でもあるんだね」


「ああ。俺のダチなんて、いっつも"彼女欲しいー!"か煩いぜ」


「ふふ。私の友達はその逆で、"彼氏なんて要らない"って部活に熱を注いでるよ」


「ははっ。今どきの女子にしてはカッケーなそいつ」


「うん!茜ちゃんはカッコイイよ」





カッコイイ、という単語に政史が反応する。





「カッコイイって言えばさ。お前のクラスに嘉山って居るんだっけ?」


「うん!居るよ!」


「…なんかスッゲー元気になったな、お前」


「え?え、えっと…」


「もしかしてお前……嘉山の事好きなのか?」





ニタニタと悪戯な笑みを浮かべて彼女に問う政史。
「なーんてなっ」と言うところだったが、悠梨が政史の言葉に俯いてしまったため、それは言えずに終わる。





「…マジ、なの?」


「え!?」


「え、って…。お前、本気でアイツの事好きなのかって聞いてんだよ」


「それは…」





悠梨の中は複雑であった。
人として尊敬しているし、憧れても居る。きっと好きか嫌いかと聞かれれば、躊躇いなく好きと答えるだろう。

しかし、今政史が聞いているのは"恋愛感情"としての好きだ。
そう問われると、今まで人として好きだと思っていた彼女の思いが僅かに揺れる。
この中途半端な思いは、果たしてどちらの好きなのか。





「ま。別にどっちでも良いけどよ」


「…?」





しばらく黙って考えていると、政史が痺れを切らしたようにフイと顔を逸らして呟く。
先ほどと比べると少し暗くなってしまった彼の表情に、悠梨は黙ってしまった。

2人の間には重たくなった空気が漂う。
どうしようと考えを巡らせていると、不意に重たく閉ざされていた屋上の扉が開き、そこには…。





「あれ。先客だ」





そこからひょっこりと現れたのは同じクラスの淳だった。
思いもよらないその乱入者に少し驚きはしたものの、悠梨にとってはありがたい存在だった。





「こ、こんにちは。岳内君」


「コンチワー。珍しいじゃん。川崎さんが山口達以外と食事なんて」


「うん。此方は長谷川政史君。昔同じ小学校に通ってて、昨日久しぶりに再会したの」


「へー…、って、昨日!?同じ学校なのに?今じゃ校舎だって同じじゃん」


「そ、そうなんだけど…。あはは」





淳の言葉にだんだんと惨めに思えてきた悠梨は、胸中で涙しながら苦笑する。
そんな2人のやりとりを見ていた政史はいつの間にか元に戻っており、悠梨に「友達?」と尋ねた。





「うん。同じクラスの岳内淳君だよ」


「岳内だ。ま、よろしく」


「こちらこそ」





軽く自己紹介を済ませると、淳はハッと何かを思い出したように悠梨へと視線を向ける。
きょとんと見つめ返してくる彼女に、淳は変わらぬ態度のまま聞いてきた。





「あのさ。ここに瀬那来なかった?」


「え、嘉山君?」


「そ。しばらく教室で女子に囲まれてたんだけど、気づけば居なくなっててさ。
 何処かに避難して隠れてるかと思って、今探してるんだけど…。これが全然見つからなくて」


「ハハ!あの学園の王子様がかくれんぼ?」


「そ。あの王子様・・・が」





ニッと悪だくみ考えてそうな笑みを浮かべて政史と話す淳。
政史も淳とのノリが気に入ったようで、ワザと"あの王子様が"と付ける。

これを瀬那本人が聞いたらさすがに怒るんじゃないかと心配した面持ちで2人を眺めていた悠梨だが、
そろりと視線を泳がせた瞬間、この時ばかりは見てはいけないものを見てしまった様に視線を2人へと戻す。


そして小声で2人に向かってその話方を止めるよう促すも、まったく聞き耳を持たない。
どうしたものかとソワソワしていると、とうとう"あの王子様"が2人の背後へと仁王立ちした。





「君達。なにやら面白そうな話をしているね。僕も混ぜてもらっていいかな?」





その直後の2人の顔はしばらくの間忘れられないだろう。

しまったと思った頃には時既に遅し。
恐る恐る振り返った先には、満面の笑みの王子様が顕在していたのだから。





「せ、瀬那…っ!?い、いつからそこに…!?」


「いつからだと思う?タケの想像に任せるよ」


「い、いやあ!だったらたった今だと有り難いんだけど!いや、けど、でもさ!無事な姿を見て安心したっていうか!」


「それはありがとう。けど、君の悪知恵を他の人に話すのはとても迷惑な行為だと僕は思うんだけど…」





「違う?」と瀬那が絶やさない微笑みを浮かべたまま問えば、淳は顔を真っ青にして連続で頷いた。





「そ、そそそそそうッスよね!俺ってばドジー!何分かり切ってた事やってるんだろー!
 いやー、もう、マジでごめんな長谷川ー」


「あ、いや…」





冷や汗ダラダラの淳は、政史をフォローするかのように何度も謝罪しながらバシバシと彼の背中を叩く。
まるで"さっさと避難しろ"とでも言うように。

しかし、よくよく見ると何故か既に涙目になりつつある淳に、政史は困惑を浮かべた。
どうすればいいんだ、と唯一知っていて頼りになる悠梨に目を向ければ、彼女の視線は一直線に瀬那へと向けられている。


これはダメだと直感的に悟った政史は、再び瀬那へとゆっくりと視線を向けた。





「あ、あのさ…」


「ん?何かな」


「お前って…」


「?」






どうにかして話題を変えようと努力するものの、今の政史には一度も話した事がない瀬那との会話は難しい。
視線を泳がせてなんとか考えを編み出そうとしても、結局は意味無く終わり、淳を一瞥してから、再び悠梨へと視線を向けた。





「ゆ、悠梨。飯も食ったし、そろそろ戻らないか?」


「えっ。もう?」





明らかに残念そうな顔を浮かべる悠梨に、政史は言葉を詰まらせる。
この間にも淳はバシバシと政史の背中を叩き続けており、今の彼の心境が直に伝わってくる。

此方としても早くここから去りたい心境にある政史だが、悠梨を無理矢理連れだす事は躊躇いがある。


そうこうしている内にも政史の背中は制服で隠れているものの、既に真っ赤だろう。
淳の心境が行動となって彼に与えられるそれは、今ではかなりの痛み。

そして痛みの我慢が限界まできた時、政史がとうとうキレた。





「だー!もう!!お前さっきから叩きすぎだろ!?何回叩いてると思ってんだ!アア!?」


「おま…っ!?性格変わりすぎだろっ」


「うるせー!あと、嘉山!お前は無駄にプレッシャーかけんな!こっちが迷惑だろうが!」





突然矛先を変えられ、一瞬目を広げる瀬那。
しかし、政史は本当に怒っているようでその瞳に迷いは一切なく、怒り一色だ。

やりすぎたと後悔している淳と、突然怒鳴り出した政史の変わりように驚いてる悠梨を余所に、
瀬那だけは冷静で落着きのある穏やかな笑みを収めることはなかった。





「君って――――――…」


「何だよ」





その時を、悠梨は見逃さなかった。

屋上に現れてから、否、これまでの学校生活の間彼が絶やすこと無かったその微笑みが、
この瞬間、一気にその場の温度を格段に下げた。





「もしかして、友達少ない?」





さらりと一言言いのけた瀬那の言葉は、その場に居た者達を呆気にとらせた。
悠梨と淳はポカンと口を開けて呆然とし、政史は怒りを忘れて目を白黒させる。

しかし、それは直に怒りへと戻り、政史は余裕の笑みを見せる瀬那を鋭く睨みつけた。





「何だと、お前っ」


「そんなに短気だと、よく家族の人とかに怒られてそうだね」


「…っ」


「あと、もしかしてよく一緒に居る友達も似たようなタイプが多いんじゃないかな」





スラスラと好き勝手に言い続ける瀬那に、政史は何か言い返そうと口を開く。
しかし、その口から言葉が出ることはなかった。

何故なら、彼の言った事は政史の事実と等しかったから。
実際、彼は家族によく怒られ、一緒に居る友人達も決して気が長いとは言えない。


政史は呆気にとられながらも驚きを一緒に浮かべながら、目の前の瀬那を凝視する。
どれだけ睨みつけても怯える姿を一切見せなかった瀬那に、政史は悔しそうにギリッと歯を食いしばった。





「っ、先に戻る」


「政史君…!?」





悠梨の声をも無視し、政史はそのまま屋上を出て行った。





「…彼の気を悪くさせちゃったね。ごめんね、川崎さん」





彼の姿を見送ると、瀬那は直に謝ってきた。
それに慌てて首を振り「嘉山君のせいじゃ…」と零す。

淳は淳でどっと疲れを受け、やっと圧迫された緊張感から解放されたその場で一つ息を漏らした。





「それにしても、あの長谷川とかいう奴…アレが本性なのか?」


「え…?」


「最初はあんな怖い顔してもなかったじゃん。あんなに変貌するなんて思わなかったっていうか…」


「…うん」





悠梨も久々に会ったとは言え、彼のあの変貌には本当に驚いていた。
昔はいつもニコニコしてて、誰とでも直に仲良くなって、人気者だった。

元気で明るくて、いつも輪の中心に居た彼が、あんなにも変わる事があるのだろうか…。


悠梨は困惑した心境で政史の事を考えていると、不意に瀬那が彼女の前まで足をすすめ、





「…彼、気をつけた方がいいかもしれない」


「え…」


「あまり安心できるとは思えない」


「……嘉山、君?」





見上げた先の彼の表情に、いつもの笑みはない。
真剣一つの表情で、政史が出て行った扉を鋭い視線で見つめている。

こんな瀬那の顔は初めて見る悠梨は、言葉が出せないまま、ただ黙って彼と同じ視線を辿ることしか出来なかった。


同時に響く昼休み終了のチャイム。
瀬那はそれを聞くと、彼女に向けた表情はいつものあの穏やかな笑みだった。





「昼休みが終わっちゃったね。僕等も教室に戻ろうか」


「う、うんっ」





未だバクバクと落着きを見せない鼓動を胸に、悠梨は淳と一緒に先に歩きだした瀬那の後を追った。

悠梨は気付かなかった。
屋上を出る前に、お弁当箱をそのまま置いて行ってしまっていた事に。









































この日も授業を終え、それぞれ部活に行ったり帰宅したりと様々な生徒が居る。

隣をちらりと見ると、いつの間にか先ほどまで居た彼、瀬那はそこにはおらず、空席と化していた。
時々ある彼のこの気配無き行動。悠梨は少し残念そうに眉毛を八の字に下げるも、鞄に手を入れた事で視線をそれへと向ける。

悠梨は特に部活動に入っている訳ではないので、帰宅する準備をしているが、そこである事に気づく。





「あれ?」





鞄の中身を確認してみる。しかし、そこにはやはり無いのだ。
昼間までしっかりと持っていた、そう、お弁当箱が見当たらないのだ。

悠梨は記憶を辿り、一体何処へ忘れてきたかと巡らせていると、はたと気づく。





「…屋上?」





そうだ。昼間は政史と共に屋上で昼食をとった。もし忘れてきたのならあそこが一番確率高い。
悠梨は鞄を一旦閉じると、直に教室から出て行った。

賑やかな廊下を抜け、誰も居ない屋上へ続く階段を駆け上がる。
昼間と同じ重たい扉を両手で押して開ければ、視界一面には昼間よりも暗く染まった曇り空が出迎えてくれた。





「確かこの辺に…」





悠梨は昼間食べた辺りを探す。しかし、そこにはお弁当箱はなく、悠梨は場所を変えて歩き出した。
すると風が吹く音の合間に別の何かが聞こえる。
悠梨はその場で立ち止まり、耳を澄ませてそれに集中すると、それは誰かの声だという事に気づいた。





(誰か居るんだ)





しかし、見渡す限りでは人の姿は見えない。
悠梨はもう一度辺りを見渡すと、二か所だけ見ていない所を見つけた。

一つは給水塔の傍。
一つは屋上の入口のすぐ傍にある死角となった小さな空き場所。

誰かの声は二つ目の空き場所の方から聞こえてくる。
悠梨がそこへと足を向けると同時に声の音量を徐々に大きくなっていく。


何を話しているのかまでだんだんと聞こえてくるようになってきた時、悠梨は動かしていた足を意識的に止めた。





「ああ。じゃあ、それは吹雪に任せて…」





吹雪…。





「いや。それは渚にも伝えておかないと煩いだろ。…お前等ばかりで勝手に進めすぎるな、烈火」





渚、烈火…。





(この名前って―――――)





悠梨は落ち着いていた鼓動が一気に加速するのを感じた。
既に騒がしい位に乱れているそれに、信じられない事を聞いている自分に驚いている。





(これって……あの人達の名前じゃ…?)





そう。この誰かも分からぬ声の主は、彼女がよく知っている名前を次々と口にしている。
それはあの今大人気で知らぬ者はほとんどいないと思われている有名アーティスト【Sky Blue】のメンバー名。

吹雪とは、おそらくFUBUKI。S.Bのドラム担当で、リーダーでもある。
そして渚、烈火・これはおそらくNAGISAとREKKAだ。





「え?燈弥も一緒?…お前はまた勝手に…。褒めてない、調子に乗り過ぎだ」





燈弥とはきっとTOYAの事だ。
S.Bのキーボード担当で、彼等の中では最年少の存在。

悠梨は緊張で重たく感じる足をなんとか動かして、声の方へと近づく。
なるべく物音をたてないように注意をしながら騒がしい心臓を落ち着かせようと呼吸をする。

ゆっくりと壁に手をかけて、そっと顔を覗かせる。
すると、悠梨は驚く姿を目の当たりにした。





(え…!?)





空は曇り。太陽は見えない。

死角の陰で風に流れる深海色の髪。整った横顔。空色の瞳。
透き通った、全てが水で包まれたような心地よい声。

その良く目にする姿、存在に、悠梨は言葉を飲み込んだ。
今自分の目に映っているのは、携帯を片手に話すあの瀬那だったからだ。





(嘉山君?何で嘉山君が…S.Bの皆の名前を?)





状況が掴めず、困乱するばかりの悠梨。
だがこれだけは分かる。今自分は聞いてはいけない事を聞いてしまっている事に。

悠梨は何故瀬那が彼等と関わりを持ち、そして繋がりを持っているのか気になって仕方なかったが、
今はこれ以上彼の話を聞かず、直にこの場から立ち去ろう。


そう決意しよろよろと右足を一歩下げたその時―――――――カラン。
彼女の足は、先ほど見逃してしまった自分のお弁当箱に見事当たってしまい、音を立ててしまった。

情けなく蓋を外して倒れるお弁当箱。
それを視界に納めた時には既に手遅れ。


彼女の背後では驚きを露わにした瀬那が悠梨を見詰めていた。


彼の視線は直に悠梨にも伝わった。
我に返って振り返った時には、彼との視線は真っ直ぐ混じりあっていて。

言葉が出ない程の緊張感と焦りが彼女を覆う。
何か言わなければと思考を巡らすも、焦っているせいで何も思いつかず、悠梨は口を閉ざしてしまった。


しかし、そこで重苦しい雰囲気が僅かに軽くなるのを感じた。





「どうしたの、川崎さん?」


「―――――っ」





視線の先にはいつもの微笑みを浮かべる瀬那の姿。
穏やかな雰囲気がこの場の雰囲気を和らげてくれているようで、悠梨は僅かに安堵を漏らした。





「あ、あの…昼間に忘れたお弁当箱を、探してて…」


「お弁当箱?ああ、その足元にあるのだね」





携帯をポケットに仕舞いながらゆっくりと悠梨の傍まで歩み、外れた蓋と元をしっかりと重ねて彼女へと差し出す。
彼を直視する事が難しい今の状況に、悠梨は俯き加減のまま彼が持っているお弁当箱に手を伸ばす。

しっかりとそれに触れて掴んだその瞬間、彼女の視界は一瞬にして向きを変えた。





「一体いつから聞いていたんだ?川崎」





両手首を壁に押さえつけられ、壁に固定されている自分。
目の前にはいつもと変わらない穏やかな表情の瀬那だが、彼が纏う雰囲気は全く違う。
口は笑っていてもその瞳だけは笑っていない。

悠梨は今自分が置かれている状況に混乱するばかりで、ただただ、彼を見つめることしか出来なかった。





「嘉、山…君?」


「何だ?まさかこれが夢だと思っているのか?…とんだお笑いモノだな」





彼は右手だけを彼女から放し、今までかけていた眼鏡に触れる。
それを外して胸ポケットに仕舞えば、再び上げたその表情はやはり変わる事はなかった。





「その、声…!嘉山君って…まさかっ」


「まだ分からないのか?これが……"真実"なんだよ」






空は暗い。もはや光は見えない。
今にも雨が降り出しそうな空の下、陰の世界で一人の男の笑みが本物へと変わりをみせた。





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