何が起こったのか。
どうしてこんな状態にあるのか。

グルグルとこんがらがった悠梨ゆうりの頭では、それを理解するのに僅かに時間がかかった。


小学生の頃から付き合いがあり、割と仲が良い関係だった政史まさしが、今は視界いっぱいに映っている。
そして同時に背景に映るのは、何故か教室の天井。

夕陽に照らされ、オレンジ色に眩しい色で染まるその空間に普段なら心安らぐが…。
とてもじゃないが、今はそんな悠長な考えをしてられる程、悠梨自身も余裕ではない。





「ま、さし…君?」





戸惑いと困惑を浮かべた眼差しで目の前のほとんどを覆い尽くす彼の名を呟く。
その声にうっとりするように目を細めた政史は、悠梨の心境を悟ったように、その手で彼女の髪を撫でた。





「何?悠梨」





ゾワリ、と体中に鳥肌が立つ。
今まで彼が隣に居ても拒絶反応は出さなかった自身が、今は完全に彼を否している。

悠梨は今までと自分が違いすぎて余計に戸惑い、何も言えず、
ただ目の前の存在をその視界に映している事が精いっぱいだった。


政史は小さく笑うと、撫でていた悠梨の髪からそれを離す。
今の彼の表情は至極喜びに満ちていて、欲しかった玩具を手に入れた子供のようでもあった。

しかしそれは悠梨にとって不安しか与えない。
いつもと違う彼の態度に、彼女は無意識のうちに震えていた。





「…何故怯えているんだ?悠梨」


「…っ」





背中にある冷たい感覚は消えない。
そんな状態を保ったまま、政史がゆっくりと悠梨へと顔を近づけてくる。

反射的に顔をそむけた悠梨の態度に、政史は僅かにその表情を歪めた。
しかし、それは静かに和らぎ、再び微笑を浮かべるのである。





「なあ、悠梨。お前は俺の事、好き?」


「…え…?」





政史の唐突な問いかけは勿論の事、悠梨を困惑させた。
友達としか見ていない彼にそんな事を聞かれれば、それは普段なら"友達として好き"になるだろう。


―――――――だが現状が違う。


悠梨は今目の前に居る彼が笑っていようとも、その眼だけは笑っていない事に気づいていた。
こんな状態で長時間耐えられるわけがない。出来るなら直にでも離れたい。

けれど、今の悠梨は政史によって机に張り付けられているようなもの。
逃げ出すにしても、まずは彼を遠ざけなければならない。
そんな事が自分に出来るだろうか。


悠梨は静かに自分を覆っていく恐怖と不安に耐えながらも、なんとか彼に退いてもらおうと考えた。
隙を突いて逃げよう。今の政史はいつもの、自分が知っている彼じゃない。

悠梨は意を決めると、ゆっくりと口を開いた。





「政史君、お願い退いて?何で、こんな事…」


「悠梨。俺は今お前に質問したんだ。ちゃんと答えてよ」


「っ…」






政史の表情がにこりと笑みが重なる。
しかし、先ほどからその声の低さは歴然。

いつもよりトーンを落とし、まるで獲物を狙う獣の様な鋭い目つきをしている。





「なぁ、悠梨。嘉山かやまなんかより、俺の方が好きだろ?」


「政史君…?」


「あんな奴、教師・生徒全員を騙してる道化だ。良い子ちゃんな顔をしている偽善者。それ以外の何物でもない」


「…!」





冷めた目で悠梨を見つめながら政史は彼女が知らない、あの保健室であった出来事を思い返しながら囁く。
愉快そうに喉で笑い、目を細めて。

悠梨はこんなにも歪んだ表情を見せる政史に、信じられない思いで彼を見つめていた。





「な、んで…?何で、そんな酷い事、言うの?」


「―――――酷い?何が?」






悪びれもなく無邪気に笑って見せる政史。
悠梨はその胸に大きなショックを受けて、彼を驚愕に満ちた瞳た見詰めた。






「俺は事実を言っただけ。お前は騙されてるんだよ、悠梨」


「何を、言って…」





政史は机に着いていた手を悠梨の頬に当てる。
同時にビクリと震える彼女に、政史は更に目を細めた。





「昔からお前は他人を信用し過ぎていた。だからいろんな奴にからかわれるし、騙されてた」






「それは今回も同じだ」政史は目を閉じて告げた。





「アイツもお前の事を騙し、お前が慌てる姿を見て楽しんでるだけなんだよ」


「…が、う…」


「それに、何で嘉山は何度も告られてるのに全員フってると思う?女子達が悲しむ様を見るのが滑稽だからだよ」


「――――っ、違う!」





悠梨は政史の口から出てくる瀬那せなに対する酷い言いように、震えていた手が動いた。
教室に乾いた音が響き、再び辺りを静寂に戻す。

悠梨は倒されていた上半身を起こし、右手を自分の顔の横に位置付けている。
だが政史は悠梨から体を離され、その左頬は赤く僅かに腫れていた。


そっと赤くなった部分に触れる。
一時、政史は困惑した面持ちでいたが、状況を理解した途端その顔を歪みへと変えた。





「…っは。こんな状況で…、やるじゃん、悠梨」


「え…」





僅かに空いた距離を戻されない内に離れようと一歩動いた途端、勢いよく手首を掴まれ、
悠梨はそのまま窓側に追い詰められた。

背中に少なからず衝撃が走る。
思いもよらないその行動に目を見開いて政史をみやるが、今の彼はもはや"悠梨の知ってる"政史じゃない。


手首が軋むように痛い。
完全に動きを封じられた悠梨は、恐怖のあまり涙腺さえ浮かべていた。

政史は悠梨を見つめて、不敵に笑う。





「そんなに俺を見詰めてたいの?悠梨」





その言葉と共に、更に距離が詰められ、最早その距離は5p程度。
触れるか触れないかの距離まで追い詰められた彼女は、既に彼を拒絶していた。





「や、だ…嫌だよ、政史君…っ」


「何が?さっきも言ったが、俺はずっとお前の事がすきだったんだぜ…悠梨」





距離が徐々に縮まっていく。
逃げる術さえ失われてしまった悠梨には、最早誰かに助けを求める他なかった。





「い、や…」





カタカタと震える悠梨の手を掴み直して見つめる。
首を小さく左右に振るその姿を見た政史は、更にその笑みを深めた。





「好きだぜ、悠梨…」


「っ、嫌…」





怖い怖い怖い。
触れられたくない、これ以上。

助けて助けて助けて誰でもいいから。





その時、悠梨の内に一つの疑問が生まれる。





―――――誰でもいい?

本当に、誰でもいいのか。
この状況から助け出してくれるなら、本当に?


既に目の前まで迫っている政史から視線を逸らせられないまま、悠梨の頭の中はそれに集中していた。


こんな時にそんな事考えていられる余裕が何処にあるのだろうか。
自問自答したいくらいの状態なのにも関わらす、悠梨の内側は静かな落着きを取り戻していた。






『なあ、川崎…』





不意に誰かの声が頭を過る。





『俺は仲間を傷つける奴が大嫌いだ。……お前は一体どっちの存在なんだ?』





いつ聞いたのか、いつの事なのかは分からない。
けれども、その声は鮮明で。深くて、何処までも遠くまで響いて。





『……ちゃんと寝てねェのかよ』





不安定に揺れる、その声。

何故そんなにも寂しそうなのか。
何故そんなにも不安な感情を込めるのか。

何故―――――――…。





『何で…』





「随分と余裕だな、悠梨」





その声と同時に、悠梨は現実へと引き戻された。

目の前では相変わらず不敵に微笑む政史。
そして悠梨の体は彼によって身動きできない状態にされている。

逃げ出すことは敵わない。


悠梨は自分の状況を思い出すと、直に政史の手から逃れようと暴れ出した。





「いや…嫌っ。放して、放して政史君!」


「っ、いきなり暴れてんじゃねーよ!」


「きゃあっ」





突然怒鳴り声を上げ、政史は悠梨の手首を余計にきつく握りしめた。
思わず顔を歪める悠梨。

政史はその隙にと、一気に彼女との間合いを詰めた。





「―――――っ!!」





鼓動が一気に加速する。
スローモーションのように彼が近づいてくるのが見える。

けれども、悠梨はそれから逃れることが出来ない。
このまま彼の思い通りになってしまうのか。

そんなのは―――――――。





「っ!」





覚悟を決めて目をキツク閉じた。
同時に願った。

誰か助けて、助けてお願い。


来るはずの恐怖を胸に、悠梨の頭には一人の姿が浮かんだ。





『何で…』





透き通るような声が問いかける。





『何で、そんなになるまで…』





自分よりも大きな手が自分のそれと重なる。
束の間の触れ合い。

確かに感じた温もりは、悠梨のそれを一度だけ包み込んだ。





『お前は…ホントに、バカなお人よしだ』





柔らかな声は、かすかな笑みを共に彼女を優しく包み込んだ。





「助けて…っ、助けて嘉山君!」


「!?」





悠梨は自分が気づく前に一人の名を叫んでいた。





「助けて…、嘉山君、嘉山君っ」


「ッ、悠梨、お前…!」


「嫌ァッ。嘉山く…」


「俺以外の名前を呼ぶな!!」





政史は無理矢理にでも黙らせようと悠梨の顎を掴んで固定した。
その瞳に映るのは絶望一色。

悠梨は大きな瞳に涙を貯めながらギュッとその視界を閉じた。





「ッ、瀬那君…!」





闇に染まる前に、もう一度笑いあえたあの関係に戻りたかった。
そして、真実を伝えたかった。

悠梨は悲しみの涙をその頬へと流した――――――…。





「――――…」





しかし、いくら待っても恐れていた恐怖はやってこない。

恐る恐る、悠梨は意を決して固く閉じてた瞼を震わせながら開けようとすれば、
暗い視界で聞きなれた声が優しく奏でられた。





「自分から呼んでおいて、いつまで目ェ閉じてる気だ?」





その声にハッとし、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
するとそこには、穏やかな笑みを浮かべた"優等生"の彼が居た。





「…嘉山、君…?」





どうして…?
悠梨は内心動揺と驚きでいっぱいだった。

ここのところずっと休んでいた彼が、目の前に居る。
今日だって一つも授業に顔を出さなかった彼が、目の前に居る。
自分に向けて、笑ってくれている。

悠梨は頭の整理が出来ないまま、ただ彼を凝視していた。


瀬那はふと笑みを零し、続いて意地悪なそれを見せた。





「随分と楽しそうな事してるんだな」


「っ!?」





「これはお前の趣味か?」嫌味ったらしく瀬那が囁く。
しかし悠梨は誤解されたくないと思い、何度も首を横に振って否定する。

すると瀬那は相変わらず悠梨を見詰めたまま、彼女に触れるか触れないかの距離を少しだけ離した。





「じゃあ、コイツの勝手な行動…。それで間違いないな?」





瀬那が距離を離した事で、今どんな状態なのかを確認できた。

確かに視界に映るのは瀬那。
だが、その後ろでは憎らしそうに彼に口を手で覆われ、睨みつけている政史の姿。


悠梨は政史の姿を目にした途端、その眼に先ほどまでの恐怖が身震いと共に蘇ってきたのを感じた。
そのつぶらな瞳に再び涙が溢れそうになる。

瀬那は悠梨を見詰めていた視線を少しだけ逸らし、それまで塞いでいた政史の顔をそのままグイッと方向転換させ
勢いを持ってその身体を後方へと投げ飛ばした。


鈍い声を漏らして直に起き上がった政史は鋭い視線で瀬那を射抜く。
そしてそんな彼から悠梨を背に庇うようにして、瀬那が立ちはだかった。





「テメェ…ッ!また俺の邪魔をする気か!!」





怒りにまかせて怒鳴り声を上げる政史。
悠梨は瀬那の背中越しに大きく肩を揺らし、身を縮こめた。





「あまりデカイ声を出すな。耳障りだ」


「ンだと!?」





まるで挑発するかのように一言告げた瀬那に、政史の怒りは拡大する。

悠梨は不安定に揺れる心臓を落ち着かせようとするも、そう簡単にはいかず。
瀬那の後ろから顔を覗かせて様子を見れば、怒りに満ちた瞳を向ける政史と目が合ってしまった。





「悠梨ッ」


「―――っ」





彼の恐怖のあまり、悠梨は反射的に瀬那の袖を震える手で握る。

その震えが服越しに伝わってくるのを感じた瀬那は、冷たい視線を政史に向け、
同時に悠梨の手を自らの手で力強く握り締めた。


思わず伏せていた顔を上げて瀬那を見上げる。
しかし、瀬那は悠梨に視線を向けることなく、冷たい眼差しを政史に向けたまま彼女を再び背中に庇った。





「お前は…無理矢理手に入れて嬉しいのかよ」


「何だと?」


「俺は強制的なやり方が大嫌いなんだよ。だからお前がコイツにしようとしていた行動も許せねェ」





悠梨は瀬那の言葉に目を見開いた。

彼は一体どこから見ていて、何処まで知っているのか。
そして、何故そんなにも怒ってくれているのか。

あんな別れ方をして以来会ってもいないというのに、彼は本気で政史から自分を守ろうとしてくれている。


悠梨は瀬那の本気の表情に言葉を飲んだ。





「ハハッ。やっぱりそれがお前の本性なんだな」





その時、不意に告げられた政史の言葉に悠梨は視線を彼へと向ける。
政史は不敵な笑みを浮かべたまま可笑しそうにその喉を震わせた。






「やっぱりテメェは自分を偽ってた!誰もかれもを騙し、良い子ちゃんぶってたただの偽善者だ!」





政史の表情は一気に勝気に満ち、直に悠梨へと向けられた。





「どうだ、悠梨!俺が言った通りだったろ!?コイツの普段見せる姿は偽物なんだ!お前は騙されてたんだよっ!!」





彼がハッキリと言い放った言葉に、一瞬その心を揺さぶられる。

確かに、普段の瀬那が学校で見せる姿は彼そのものじゃないかもしれない。
だが、その中に"本来の彼"は確かに居た。


いつも穏やかに笑う笑顔でも、たまに囁かれる意地悪な言葉や、優しさは決して"偽り"じゃない。
悠梨は瀬那の手を今より少しだけ力を込めて握ると、政史に強い視線を向けた。





「私は、騙されてないよ…政史君」





悠梨のその言葉には、今度は政史が驚く番だった。

まるで信じられないと言葉を使わずに表しているようで。
言葉を失った彼は、苦虫を噛む思いでその表情を歪めた。





「お前は…まだ分かって」


「分かってるよ。嘉山君がどんな人で、本当はどんな風に笑うのか、どんな風に話すのか」


「っ!?」





悠梨は瀬那の背中から前へ出ると、一度深呼吸をし、政史を真剣に見つめ返した。





「嘉山君は偽善者でも、良い子な顔をしてるワケでもない」





瀬那は先ほどと比べて強い意を込めた悠梨の言葉にそっと目を向ける。

未だにその手は震えていて、とても弱弱しい。
けれど、その瞳に迷いは一切感じられなかった。





「例え学校で今みたいな口調じゃなくても、怒った顔をしなくても―――――どっちも嘉山君に変わりないから」


「!」





悠梨は隣に瀬那の存在を感じながら、再びその手を握り返した。





「だから、私は信じる。嘉山君が、嘉山君で在り続けてくれる限り…」





「ずっと―――――…」そう囁いた彼女の表情は、とても優しかった。

政史は悠梨の言葉を耳に、グッと歯を食いしばる。
悔しさがそのまま表に浮かべられた彼は、握りこぶしを握ると、鋭い目で瀬那を睨んだ。





「…悠梨がそうでも……他の奴等はどうだろうな」


「え?」





悠梨が言葉を漏らすと同時に政史はその場で立ちあがり、悪い笑みを浮かべた。





「俺がお前の本性を学校中に広めてやる!そしたらお前の居場所は何処にもない!!」


「……」


「政史君!?」





何も言わない瀬那の代わりに悠梨が叫ぶ。
しかし、今の政史にはそんな制止は意味を持たない。





「それだけじゃないぜ?お前がS.BのASUKAだって事もバラしてやる!」


「!!」





悠梨は政史に唖然とした。
何故彼が瀬那の正体を知っているのか、何処でその事を知ったのか。

困惑する頭で考えても一向に答えは出てこない。


悠梨は焦りを覚えながら隣に立つ瀬那を見た。
しかし、驚いた事に彼の表情に焦りの文字は一つとして浮かんでいなかった。

むしろ、言葉を失う事実。
瀬那はクスクスと愉快そうに笑っていたのだ。





「何が可笑しい?」





政史が憎らしげに彼を睨む。
瀬那はそんな政史に漏れていた笑みを止めると、不意にその目を彼へと向けた。





「いや…。単純な奴だ、と思ってな」


「何だと!?」





瀬那は肩を小さく揺らして笑みを零す。
政史は挑発されまいとグッと我慢するも、その間に瀬那はかけていた眼鏡にその手で触れた。





「別に構わねェぜ。学校中にバラしても」


「ええ!?」





政史は言葉にせずとも悠梨とほぼ同時に驚きを見せた。
しかし、当の瀬那は特に気にした様子もなくサラリと続ける。





「バレるのなんて時間の問題だって予め覚悟していたし、今回はそれがたまたま早まっただけの事。
 それに、ASUKAの時と大して声の高さを大幅に変えてるワケでもないし、周りが知らないのは俺の顔くらい」





「声を聞けば直に関ずく奴も居るだろ」瀬那は溜息まじりにあっさりと告げた。

思わず言葉を失くして呆然と瀬那を見つめることしか出来ない悠梨は、最早金魚のように口をパクパクとさせるくらい。
政史は政史で呆気にとられるも、徐々に悔しさと怒りを滲ませ、その握りこぶしを高く上げた。





「っざけんなー!!」





今にも瀬那の顔をめがけて殴りかかろうと振りかぶる政史。
悠梨は反射的に瀬那の前に出て、彼を庇うように両腕を広げた。

そして痛みを覚悟で目を瞑る。
しかし、あの時と同様、その痛みと恐怖がやってくることはなかった。





「ったく。無茶しすぎだって言っただろうが。バカ」





視界を開けば、そこには悠梨を庇い、政史の拳を片手で受け止める瀬那の姿。
肩越しに悠梨を見つめ苦笑を漏らした彼は、政史へと振り返り、不敵な笑みを浮かべてその耳元で囁いた。





「単純なかけひきだけで、俺に勝てると思うなよ」





その言葉の直後、政史は瀬那に腕を掴まれ、そのまま背中から床に倒され、一気に視界を反転させられた。
瞬いた直後の世界は床のみ。

そして腕から伝わってくる痛みに顔を歪めて振り返れば、彼は今瀬那によって腕を内側へと押されている状態にある事を確認した。





「ッ、テメ…」





瀬那は痛みと悔しさに歪む政史を冷たく見下ろすと、格段に下げられたトーンで彼だけに聞こえるように告げた。





「二度とアイツに近づくな。次アイツを傷つけたら、俺はお前を許さない」





言い終えるや否、瀬那は掴んでいた政史の腕を振り払う。
やっと痛みから解放された政史はその場にいたたまれず、そして悠梨の視線の痛さにその場から逃げるように跳び出した。





「ッ…」





政史の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなると、悠梨はその場にガクリと腰を抜かした。





「お、おい…」





瀬那は慌てて悠梨に歩み寄ってその顔を覗きこむ。

しばし呼吸だけを繰り返し、ゆっくりと瀬那へと顔を向ける。
彼は悠梨の反応を黙って見つめていた。





「ど、しよ…」


「…?」





悠梨は未だ震える手を自分ので押えながら、瀬那に向かって苦笑した。





「震え…止まらないや」





予想外な彼女の言葉に、瀬那は一瞬目を丸くする。
しかし直に彼女同様苦笑に変わり、そっと手を彼女の顔の前まで上げたかと思うと、それはそのまま悠梨の額にペシっと当てられた。





「え、えっと…」


「アホ」


「えっ!?」





唐突な瀬那の言葉にショックと驚愕をみせる。
しかし、瀬那はそれをやめることはなく、しばらく…。





「この単純女、考えなし、鈍感、おひとよし」


「あ、あの…」


「少しは人を疑う事を覚えろ。俺が以前忠告してやった事を忘れたのか」


「え、えと…」


「ったく。これだからお前は…。だから"おめでたい奴"って言われるんだよ、このアホ。アホアホのアホ子」


「ひ、酷いっ。そこまで言わなくても…!」





悠梨は憧れを抱く彼にことごとく言われ、胸中で涙を流す。
しかし、瀬那は容赦なく、続けて何度も「アホ」と言う。

自分はそこまで言われるほどアホだったのかとショックを隠しきれず項垂れる悠梨に、瀬那はひっそりと溜息を漏らした。





「お前、もう少し自分が"女"だって事を自覚しろ」


「…え」


「男相手に女が力で敵うはずねェんだ。今回は俺が学校に来てたから良かったものの…」





そこで悠梨はちょこんと首をかしげた。





「…嘉山君、学校に来てたの?」





瞬間、瀬那の肩がピクリと揺れる。
そして静かに視線を逸らしていく彼を見詰めたまま、悠梨はさらに問いかけた。





「いつから居たの?最初から?どうして授業に出なかったの?」


「……」





悠梨が問う度に眉間に皺を寄せていく瀬那。
おもむろに彼女へと視線を向ければ、真剣そのもので見つめている顔が視界に映る。

瀬那は口を閉ざして顔ごと彼女から背けると、悠梨は慌てて彼の顔が向く方へと回った。





「どうして?」


「……」


「どうして授業でなかったの?岳内君も心配してたよ?」


「――――…」


「前野君もクラスの皆も、嘉山君が居ないと寂しそうだったよ?」


「…っ、あのなお前――――――」





いちいち顔を背ける度に悠梨が回ってくるもので、瀬那もだんだんとその表情を歪めていく。
そしてついに我慢しきれなくなった彼は、彼女に向きなおり言葉を言いかけた。

だが、あまりにも不安そうな表情を浮かべているものだから、瀬那は彼女に言うはずの言葉を途中で飲み込んでしまった。





「どうして……助けてくれたんですか?」





悠梨は一番気にかかっていた事を小さな声で呟いた。


あんな重たい雰囲気のまま別れ、勢いで必ず真実を突き止めると啖呵まで切った。
けれど、しばらくお互いが会う事はなく、ずっと話せずにいた。

だからきっと、既に嫌われてしまっているかもしれない。
もう、話しかけても答えてくれないかもしれない。
もう、目すら合わせてくれないかもしれない。


不安ばかりが積もり、拒絶を恐れていた悠梨は覚悟を決めて問いかけた。
そんな彼女を黙ったまま見つめる瀬那。

沈黙の空間に覆われたその場にいたたまれなくなった悠梨は、そわそわと視線を泳がす。
落着きが保てなくなり、瀬那の口から紡がれる言葉だ怖くなり、悠梨はその場を誤魔化そうと立ちあがろうとした。


だが――――――。





「落ち着け、アホ」


「ふぎゅ!?」





グワシッ、と右手で頬を掴まれ、まるでタコのように口を尖らせている状態にある悠梨。
しばらくそのまま見つめ合っていると、ふと瀬那の顔が緩み、そのまま笑いだした。

自分の変な顔で笑われていると確信した悠梨は慌てて瀬那の手から逃れようと奮闘するも、上手くいかない。





「どうした?その程度じゃ自力でなんか逃げられないぞ?」


「ううーっ」





決して痛くはない。けれど、何故だかその手から逃れられない。

不思議に思いながら瀬那の手に自分の手を重ねてその手を退かそうとする悠梨だが、
結局いくらやっても彼の手から逃れられる事は出来なかった。


そしてただ時間と疲労だけが積まれていく。


悠梨は疲れきった顔をしながら瀬那を見ると、今の瀬那がとても優しい微笑みを浮かべている事に気が付いた。





「…ひゃやみゃ、きゅ…」


「ぶはっ」





「嘉山君」と言いたかったようだが、相変わらず抑えられているため満足な言葉が出せない。

そんな悠梨の顔と言葉にツボをやられた瀬那は、彼女が初めて目にする…否。
おそらく二度目になる、その本心からの笑顔に、悠梨は知らず知らず見入っていた。


お腹を抱えて笑う彼なんて貴重だ。
普段なら絶対に見せないだろうその姿を、今悠梨はその目で目にしている。

無邪気に笑う彼がとても可愛らしく、そして自分と同じだと感じられた。
悠梨はそれが無償に嬉しくて、瀬那に頬を押さえられたままなのにもかかわらず笑顔を浮かべ一緒に笑った。





「ぶっ。だ、だから…その顔で笑うなって…!」





しかし。彼女の乙女心を彼は呆気無くも崩した。

人の笑顔を見てお腹を抱えて余計に笑いだす始末。
悠梨はこの居心地の悪さと恥ずかしさに我慢の限界を超え、強引に瀬那の手を掴んで頬から放した。





「もうっ。瀬那君!?」


「何だよ、悠梨」





言葉が詰まった。呼吸さえ止まってしまう錯覚に陥った。
目の前で無邪気に笑う彼が、あの瀬那が、自分の名前を呼んでくれた。応えてくれた。

悠梨は今まで感じた事のない喜びを噛みしめ、本当にうれしそうに笑った。





「顔、真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」


「ち、違うもん」


「じゃあ、何だよ。もしかして、嬉しさから…とか?」


「っ」





声を詰まらせ、頬を染める。
体中が熱を上げる感覚を覚えながら瀬那から視線をそらせば、彼はふと小さな笑みを残し、不意に悠梨の頭をぽんぽんと撫でた。





「不貞腐れたら可愛い顔が台無しだぜ?」


「っ!!」


「―――――って、吹雪なら言いそうだな」


「っ、瀬那君!!」


「ははっ。そう怒るなよ。単純」


「う―――――っ」







窓の外が夕陽がかったオレンジ色から、徐々に青く暗い世界へと変わっていく。
辺りが静まり、ほとんど校舎には生徒は残っていない時間になった頃、漸く二人は教室から出ようと支度をはじめた。

瀬那は教室の入り口で悠梨が鞄を持ったのを確認すると、そのまま廊下へと歩き出す。
悠梨はその後を追ってパタパタと駆け寄った。

彼女が隣に並ぶと、悠梨は不思議そうに瀬那に問いかけた。





「あの、嘉山君。鞄は?」





静かな廊下で聞こえないはずがない。
それなのに彼からの返答はない。

悠梨は首を傾げながら再び同じことを問うも、彼はどうしてか返事を返してくれない。





「……」





思い悩んで彼の隣から徐々に後ろへと歩くようになった彼女は、はたと思い返し、その足を止めた。
そして。





「……瀬那、君?」





大きな声、とは言えない声量だった。
悠梨は不安な顔をしながらおそるおそるその名を呼んで彼を見つめる。

すると先へ先へと歩いていた瀬那の足はピタリと止まり、肩越しに振り返っては、





「…何だよ」


「っ」





少し面倒くさそう。だが、それでもやっと反応してくれた。
悠梨は彼が自分に伝えたかった事を少なからず理解し、それに更に喜びを噛みしめ、再び瀬那の隣に駆け寄った。





「瀬那君、瀬那君っ」


「だから何だよ…」


「呼んだだけ!」





満面の笑みで言い放った彼女に悪気は一切ない。
しかし、瀬那は何度も名前を連呼され、挙句には名を呼んだ理由はそんなもの。

しばらく黙ったまま彼女を見下ろしていた瀬那だが、不意にそれは笑顔に変わり、





「用もないのに呼ぶってどういう事?」


「!!」





それはそれはキレイな満面の笑み。
眼鏡をかけたままの彼の笑顔は、ほとんどじゅんに向けられしモノ。

今まで一度だって自分に向けられた事がなかった悠梨は、その圧倒さに思わず目を点にして青ざめた。


慌てふためく悠梨を横目に、瀬那は小さく笑みを零し、ただ触れるだけの、痛みなんて欠片もない、
それはそれは優しいチョップを彼女の額にそっと当てた。




「冗談だ、ばーか」


「…!」





ふわりふわりと、まるで桜のように柔らかく、そして温かな微笑み。
悠梨は瀬那に触れられた額に手を当てながら、その眩しいくらいの笑顔をその目に焼き付けた。


夕暮れの帰り道、二人肩を並べながら歩いた帰り道はとても居心地が良かった。





「あの、瀬那君。お話したい事があるの」


「…話?」





無言で頷く悠梨。
瀬那は彼女の瞳が真剣なものを映していたのを悟り、同意するように頷いた。





「今度の休日、家に来てほしいの。その、時間は瀬那君達に合わせるから…だから…」





決意を秘め、瀬那へと本来言いたかった事を告げる悠梨。

この話題を出したら、また冷たい目で見られてしまうかもしれない。
そんな怖さもあったが、それは無駄だった事を思い知らされた。





「分かってる。だから、そう恐れるな」





俯きかけた顔を上げれば、普段学校で目にする穏やかな笑顔とは少しだけ違う微笑み。
彼の本当の笑顔だと感じた悠梨は、安堵をもらしながら頷いた。


その日、悠梨は瀬那に家まで送ってもらった。
別れ際、意外な事に彼もこの近くに住んでいるとの言う。

場所が気になった悠梨だが、簡単には言えな事だと悟り、聞くのを我慢する。


瀬那は悠梨のその気持ちに気づくことなく、彼女の家を見上げて目に収めると、不意に向きなおり、





「ここなら自力で来れる。当日は迎えは必要ないからな」


「あ、はいっ」





何とか頷いて応えると、瀬那はふと微笑し「じゃあな」と片手を振って背を向けた。





「あの…、また明日!瀬那君!」





瀬那は動かしていた足を止めると体ごと彼女に向きなおり、そのまま手を振って去って行った。

一日にしては長い時間だった気がする。
たくさんの出来事が一度に起こり、思い返せば驚くことばかりだった。


悠梨は静かな家に入ると、自室へ行き、そのままベッドにダイブした。
ふわりと受け止めてくれたそれに仰向けになりながら水玉模様のクッションを抱きかかえる。

天上を見上げながら今日の出来事と、瀬那と和解出来た事への嬉しさを噛みしめながら
悠梨はうとうとと重たくなってきた瞼をそっと閉じた。







































翌日。朝早くに目を覚ました悠梨はお風呂に入り、少し早目の朝食をとった。
幾分か余裕がある時間だ。どうしようと悩んでいると、不意にインターホンが鳴った。

こんな朝早くから誰だろう。母だろうか。

そんな事を考えながら玄関まで行き、扉を開ければ―――――。





「相手の確認もしないでドアを開けるなんて不要人じゃないか?」





「――――悠梨」そう告げたのは、昨日和解したばかりの瀬那だった。
きちんと制服を着て、いつものように眼鏡をかけて優等生を装っている。





「か…瀬那君!どうして…」


「通学路の途中なもんで、ちょっと立ち寄ってみた」





思いがけない訪問者に慌てふためくも、通学路の途中だからと立ち寄ってくれた瀬那に、
悠梨は昨日から心に積もる嬉しさを隠しきれなかった。

途端に笑顔になった彼女に目をぱちくりさせながら見つめるも、不意に入ってきた乱入者の声に悠梨は現実へと引き戻されるのだった。





「ねぇ、瀬那。ここ誰の家?」


「ああ。悠梨の家だ」


「ゆう、り?」





その疑問を浮かべた声と共に瀬那の後ろからひょっこりと顔を出した見知った顔。
お互いの姿を確認すると、両者同時に驚きを露わにした。





「あー!か、川崎先輩!」


「く、国本君!?どうして?何で同じ制服…!?」





お互いがお互いの事を凝視して問いかける。
そんな二人を観察していた瀬那だが、問いかけがキャッチボールとなって長く続くので、いい加減諦めたように溜息をついた。





「悠梨。燈弥は今日から俺達と同じ学校に編入する日なんだ。…以前会った時に言ってなかったか?」


「へ!?あ、そういえば、そんな事を言ってた気も…」


「オレ、今日から晴華学園の一年なんだ!よろしくね、先輩っ」





にこにこと無邪気な笑顔を浮かべて話す燈弥と、柔らかく笑う瀬那。
悠梨はこの間までの関係が嘘のように思えて、思わず二人をまじまじと見つめた。

普段目にする制服姿で、自分と同じように登校する二人。
だが、彼等は言わば芸能人でもある。
そんな彼等が今、目の前で自分を挟んで会話をしている。


普通ならありえない現状に、悠梨は今更ながらこれが現実なのかと疑い始めた。
しかし、それを夢なんかじゃないと打ち砕くように彼女の額にズビシッとチョップが当てられる。

我に返って慌てて視線を上げれば、今彼女にチョップを当てた張本人の瀬那がじとーっとした目で見下ろしていた。





「お前…。またクダラナイ事考えてただろ」


「えっ」





なんたる直観力。それとも元から観察力があるのか、悠梨は図星を指されて目を泳がせる。
内心やっぱり…と溜息を漏らす瀬那は小さく溜息を吐き、不意に名前を呼ばれたので視線を横へ移した。

そこには悠梨の一つ学年下の燈弥が瀬那の制服の裾をクイクイと引っ張っていて。
悠梨は内心可愛い!と絶賛した。が、本人には言わないようにと固く口を閉じる。





「ねぇ、瀬那。これを見るに…もう先輩とは仲直りしたって事だよね?」


「…仲直り?」





燈弥の問いに瀬那は首をかしげて聞き返した。
すると燈弥も彼と同じように首を傾げる。





「えっと…?仲直り、したんじゃないの?」


「俺は別にこいつと喧嘩した覚えはないんだが」





きょとんとする燈弥を視界に収めながら瀬那は平然と返答する。
一拍の間沈黙を守った燈弥だったが、直後、ぷっと笑みを漏らした。





「あっははは!そっかそっか。喧嘩してなかったよね、確かに。瀬那の言う通りだ」


「…?」





突然笑い出し、一人勝手に納得した燈弥をワケが分からないと目を細めて見つめる瀬那。
悠梨はそんな彼の天然さに、燈弥と一緒になって笑みを零した。





「…何で二人して笑うんだ?」





「意味が分からない…」笑う二人を呆れ顔で見ながら、瀬那は一人再び溜息をついた。

本日の天気は快晴。
雲ひとつないこの穏やかな天候に恵まれ、そよ風がさらさらと流れる。


たくさん笑って満足した二人はなんとか息を整えながら浮かんだ涙を拭っている。
その間、燈弥は未だ小さく笑いをこらえる悠梨にふと目を向けた。





「…話は瀬那から聞いたよ。昨日の事」


「…!」





真面目な顔で話し始める燈弥に悠梨の心臓がドクリと跳ねる。

"昨日の事"―――――――。
それは長く、大変な一日な出来事だった。


正直、昨日は嬉しい事もあったがほとんどは恐怖で占められていた。
もしあの時、瀬那がかけつけてくれなかったら今頃自分はどうなっていたのだろうか。

あのまま政史によって辛い思いをしていたのだろうか。
考えたくない想像を振り払うように首を振ると、再びその額にズビシッとチョップが当てられた。
驚いて見上げれば、再び二撃目のチョップが額に炸裂。

悠梨は何度も瞬きながら瀬那を凝視した。





「あ、あの…瀬那君…?」


「アホ」





―――――――ズビシッ。
そうして三撃目のチョップが先ほどから当てられている同じ個所へと当てられる。

悠梨は彼の行動に驚きながらも、何故こんなにもチョップされているのかワケが分からず、再び振り下ろされそうになった
彼の手を真剣白刃取りの如く捉えようとした。―――――が、時間差で彼女が手を合わせた後に振り下ろされ四撃目を喰らう。


悔しそうに顔を歪めながら瀬那を見上げれば、彼はそんな彼女を呆れた顔で見下ろした。





「余計な事をいちいち考えるな、アホ。」


「…!」





既に自分の考えは彼にはお見通しされていた。
悠梨は全てを悟られている事よりも、瀬那が気を使ってくれた事が嬉しくて負の気持ちが一気に明るくなる。

同時にふわりと浮かべられた笑みを見て、瀬那は苦笑交じりに「ばーか」と彼女に呟いた。
そんな二人のやりとりを隣で見ていた燈弥は少し驚きはしたものの、直に嬉しそうな顔になり、





「ねぇ、先輩。今日どうして瀬那が此処に来たか分かる?」


「え?」





唐突な質問に悠梨は頭に"?"を浮かべる。
瀬那は突然の問いをした燈弥を直様見やると、まるで悪戯っ子の様に笑みを浮かべていた。





「教えてあげよっか?あのね、瀬那は先輩が不安あっがてるかと心配し」


「―――――燈弥?」





調子よく話していた燈弥の声を遮る様にして一気に低められた声が彼を捉える。

同時に背後から感じ取れる重く黒いオーラを目にした燈弥は、そこから余裕の笑みは消え、冷や汗が額に滲んでいた。
悠梨の視界には青ざめている燈弥と、あの優等生の笑みを浮かべる瀬那の姿。


最近よく分かったばかりだが、悠梨も少なからず彼の満面の笑みの圧力を知っている。
そのため、今の燈弥の心境が分からなくはなかった。





「あ、あはは…。冗談だよ、冗談。本気で言おうとは思ってなかったんだよ…」


「そうか。お前なら直に話を理解してくれると思ってたぞ、燈弥」





輝く満面の笑み。

傍から見れば美少年の心射抜かれる爽やかな笑顔だが、もはやその力を知っている二人にとっては
見惚れる笑顔―――ではなく。恐怖による支配―――そう認識されていた。





「ま、まあ…。詳しい話は学校に着いてからにして、今は遅刻しない様に登校しようよ」





その場の雰囲気を誤魔化すように、苦し紛れに言葉を繋げる燈弥。
悠梨と瀬那はそれに頷くと、三人で普段通るその道を歩いたのだった。









そうして辿り着いた晴華学園の校門前。
普段なら賑やかな場所だが、今日はそれ以上に生徒たちの声が溢れかえっている。

明るい、というよりも慌ただしくざわついていた。





「何かあったのかな」





ポツリと不思議そうに呟いた燈弥の言葉に、悠梨はハッと昨日の出来事を思い出す。
昨日、政史が宣言するように言っていた。



―――――『俺がお前の本性を学校中に広めてやる!そしたらお前の居場所は何処にもない!!』

―――――『それだけじゃないぜ?お前がS.BのASUKAだって事もバラしてやる!』



もし彼が本当にそんな事をしたのであれば、瀬那にとって良い事はない。
寧ろ、本性を知ってから彼が面倒事を嫌う事は分かっていた。

この騒ぎの原因がそれにあるのなら、自分のせいだ。
悠梨は顔色を悪くしてその場に佇んだ。
これは一番なってほしくなかった最悪の状態だ。

あまりにも酷いようであれば、瀬那は―――――否、瀬那達はここに居られなくなってしまうかもしれない。


悠梨は唇を噛みしめると、とにかく話を聞いてこよう。
そう思って止まっていた足を動かした、その時。

ザワッ。
校門に居たたくさんの生徒の視線が一気に此方に向いた。





「お、おい…。嘉山が来たぞ」


「ちょ、マジでアレ本当なの?」


「もしそうならスゴイ事だよ…!」




ザワザワと騒がしさが一気に増す。
この状況を見るに、瀬那の話題でもちきりなのは明確だった。

困惑したまま此方を見ている生徒たちを見つめていると、たくさんいる女子生徒の数人がさらに声を高めた。





「えっ。ちょっと、嘉山君の隣に居るの…もしかしてTOYAじゃない!?」


「うっそ!やっぱりあの時学校に来てたのTOYAだったの!?」


「なんかやたらと似てるなーとは思ってたけど、マジだったのね!」





それは彼等に嫌悪を抱く声ではなく、寧ろ歓喜含まれた黄色い声だった。

燈弥は自分の名前が出てきた事に驚いて、おずおずと瀬那の隣に付く。
それを目にした女子達はその場で「可愛いー!」と甲高く声を広める。

今にも突進してくるんじゃないかと思わせるほど、その場は大変な事になっていた。





「って事は…」


「やっぱり嘉山君って、あのASUKA!?」


「きゃーっ!カッコイイ!前からカッコイイとは思ってたけど、まさか本当にアイドルだったなんて!」





更に賑やかさと騒がしさを増す現状。

悠梨は不安ながらも後ろへと振り返り瀬那を見る。
するとちょうど瀬那と視線が合い、彼は目を伏せながら溜息をつくと、真剣な表情で前を見据えた。





「おい」





たった一言。たった二文字の言葉だったのにも関わらず、その声は遠くまで透き通る様にしてそのばを静めた。
あれほど騒がしかった生徒達の声がピタリと止む。

信じられないと目を見開いて驚いてる悠梨を余所に、その隣に立った瀬那は辺りを見渡し、問うた。





「いつ・誰が俺をASUKAだと言った?」





ザワリ――――――。
普段とは全く違う彼の話し方に小さなざわめきが広がる。

それをこれっぽっちも気にした様子のない瀬那は一番近くに居た女子生徒数人に目を向けた。
彼女たちは一瞬驚き、顔を赤らめたものの、おずおずと話し始めた。





「あ、朝学校に来たら…貼られてあったんです。コレが」





大人しそうな女子生徒が下げていた手に握っていた一枚の紙を彼へと差し出す。
それを受け取った瀬那はしばらく口を閉ざしたままだったが、不意に不敵な笑みを浮かべた。





「そうか…。それで、お前たちはこれを信じたのか?」


「そっ、それは…」


「か、嘉山先輩は…いつもカッコよくて素敵だから…納得できるな、って…」





数人の女子生徒達はお互い顔を見合せながら緊張気味に正直に告げる。

黙って彼女たちの言葉を最後まで聞いていた瀬那だが、彼女たちの言葉に思わずきょとんとした。
そして不意に悠梨へと振り返れば、





「俺とASUKAって、そんなに納得できる組み合わせか?」


「え、えっと…。そういえば、髪の色も変わってないし、声もそれほど違いがあるワケでもないから…」


「――――ま。ハッキリ言って、納得する以外選択肢はないと思うけどな」





二人の間に割り込むようにして入ってきた声。
二人が振り返って納めた視界には、お馴染みの淳が燈弥の肩を組んで笑っていた。





「た、岳内君…!」


「よっ、お二人さん。とうとうバレちまったな、瀬那。いつもみたいに誤魔化せば皆信じると思ったけど、
 お前ってばそれすらしないんだもんなー。見てて笑えた」


「うるせー」





さっきまでの緊張感が嘘のように、淳の登場によって消されていく。





「じゃ、じゃあ、嘉山君って本当にあのASUKAって事!?」


「やったー!私、S.Bの中で一番好きなの!握手してー!」


「わ、私サイン欲しい!お願い嘉山君!同学年のよしみでサービスして!」





一気に沸き上がる歓声と黄色い声。
歓喜満タンのそれらは最早歯止めなんて利きそうにもない。

勢いよく向かってくる女子の集団を目にした瀬那は、一気に顔色を悪くし、すかさず悠梨の背後へと隠れた。
まるで烈火のような行動をとる彼に驚くも、彼の手が自分の肩に置かれている事に恥ずかしさを感じる。
そんな悠梨の心境を知らない瀬那は、益々速度を速めて向かってくる彼女たちを目に、少なからず焦り出した。





「お、おい、悠梨ッ。"ああ"なった女子はどうしたら落ち着くんだ!?」


「えっ、えっ?」


「お前と同じような雰囲気の奴等も、今では豹変してるぞっ」





目をギラつかせ、獲物狙う肉食獣の如く迫ってくる女子達。
もう間近に迫ってきたその群れに後ずさる二人の前に、予想外な人物が割り込んできた。





「おい、お前等!本気でこんな奴を受け入れるのかよ!?」





突然の乱入者に向かってきていた女子達は不機嫌そうにその乱入者を睨みつける。
その乱入者を見た途端、悠梨はビクリと肩を揺らし、微かに震え出した。

その乱入者―――――政史は、校門に集まる生徒を見渡しながら怒った顔で叫ぶ。





「コイツは…嘉山はっ。俺達全員を騙してた偽善者なんだぞ!?それなのに、お前等は簡単に許すのかよ!?」





眉間に皺を寄せて尚も続ける政史は、鋭い目つきで振り返り、悠梨を見つめる。
恐怖を覚える悠梨に、まるでそれから守る様に瀬那が彼女を昨日同様に庇って立ちはだかった。

彼の行動に余計に顔を歪める政史は、その場で舌打ちをし、周りに向かって叫ぶ。





「お前等は怒らねーのかよ!!コイツは、こうやって俺達を騙して、騙されてる俺達を見て笑ってたんだぞ!!
 それでもコイツを簡単に許して受け入れるつもりかよっ!?」





興奮のあまり次々と瀬那に対する暴言を吐いていく政史。
生徒達はだんだんと彼の言葉に顔色を変えていく。

そしてその中で、ついに一人の生徒が声を上げた。





「さっきから黙って聞いてればウッサイのよ、アンタ!!」


「!?」





大きな声で発せられた声にザワついた中から、一人の女子生徒が現れた。
その姿に驚く悠梨。

その視線の先には、今まで部活をしていたであろう茜がジャージ姿で仁王立ちしていた。





「何だよ、お前っ。お前もアイツの」


「男のくせに弱っちい発言ばっかしてんじゃないわよ、ウザったい!」





政史の言葉を呆気無く遮り、茜はイラついた面持ちで彼を睨む。





「騙されてた?笑われてた?それが何?バッカじゃないの。そんなの、嘉山君が芸能人なんだからしょーがないじゃない」





大胆にも単純明快なその言葉に多くの生徒は目を点にする。
それは政史もだが、瀬那や燈弥も同じで、茜の単純な発言には言葉を失った。

しかし。





「だいたいねぇ、別に人が入れ替わったとか、まったくの別人だったとか、そんなお恐れたことじゃないんだし、
 ンなギャーギャー言うほどでもないでしょ。それに、嘉山君がASUKAな事くらい、薄々気づいてたし」


「!!」





それには悠梨も驚きを隠せなかった。
瀬那も同じように少し驚いてはいたが、彼女ほどではない。

その間も茜は腰に手を当てて溜息をつき、不意に悠梨へと目を向けた。





「それに、私の親友には彼の大ファンが居てさ」





にっこりと爽やかなくらいの笑みを浮かべると、茜は告げた。





「その子の反応見てれば、嫌でも分かるっていうか、確信に変わるんだよねー」





悠梨は彼女の言葉に絶句するしか出来なかった。
そして隣からはじとーと呆れた視線が注がれる。

いたたまれない現状に、悠梨は胸中で瀬那に謝罪を何度も繰り返した。





「それに、アンタの場合そんなに怒るなんて私情が絡んでるからでしょ?だからって私達にまで迷惑かけないでよ。
 アンタが起こした騒ぎのせいで部活が中断して迷惑してんのよ、こっちは」


「なっ!?」





キッパリと言い放った茜の言葉に、今まで黙っていたその場にいた生徒達が同意する。
一気に立ち場が悪くなった政史は悔しそうに顔を歪めると怒鳴った。





「お前等全員バカだ!一生コイツの掌で踊らされちまえ!!あとで後悔してもおせーんだからなっ!!」





その場から駆けだして門を潜って学校の外へと出て行った政史。
そんな彼の背中に「後悔するか、バーカ!」と、清々しい程の明るい声が校門に響き渡った。

悪は去った。
きっとマンガの世界なら最後のコマにこのフレーズがあっても過言ではない今。

だが、彼が去った後、その場は再び賑やかさを取り戻した。





「あんな奴に言われても後悔しないっつーの!」


「そうそう。私達、嘉山君の素顔知らなかったとしても酷い事された事なんて一度もないもんねっ」


「寧ろ助けてもらことばっかりだもんね!」





そうしてその場に沸き起こるたくさんの笑い声。
一時はどうなるかと思ったこの騒ぎも、今では彼を快く受け入れてくれる温かな声でいっぱいだった。





「良かったね、瀬那!」


「ま。男子はともかく、お前女子に人気だし、嫌われることなんてありえねーくらいだもんな」


「…そんな完璧な人間じゃねーよ、俺は」





少し困った、けれど本当に嬉しそうな、本当の笑顔を見せる瀬那に、その場にいた女子は再び騒ぎ出す。





「か、嘉山君!早速だけど握手して―!」


「ちょ、押さないでよっ。嘉山先輩!サインくださーい!」


「おーい、嘉山ー。俺にもくれー。姉貴がお前の大ファンなんだ」





ドタバタと獣の如く迫り走ってくるたくさんの生徒たちを見て、顔色を青くした瀬那は踵を返して逃げ出す。
その後を慌てて追いかける淳達は、瀬那の背中に向かって汗を浮かべて叫んだ。





「おい、瀬那っ。さすがにこれはモテすぎだろー!?」


「俺のせいじゃない!」


「瀬那―!いつまで逃げるのさー!?」


「アイツ等が落ち着いてくれるまでだ!」






悠梨もなんとか瀬那等三人に置いて行かれないようにと後に続くも、彼等に比べて足の速さは遅し。
だんだんと距離ができ、彼等の背中が遠くなりかけたころ、その手を誰かが掴んでくれた。

ぱっと見上げれば、ちょうど邪魔だと言わんばかりに眼鏡を外し、鞄に強引にしまいこむ瀬那。
そして悠梨へと視線を向ければ、





「転ぶなよ」





小さな微笑みを浮かべて悠梨の手を引いて再び駈け出す。
後ろから追いかけてくるたくさんの女子達を横目に、悠梨は力強く握られたその手をそっと握り返した。

しばらくの間、この追いかけっこは続き…。
騒ぎを聞きつけた教師等に止められ、なんとかその場が落ち付いたのは既に二時間目の授業が終わりを迎えてからだった。


そして昼休みに近づいた四時間目。
悠梨のクラスでは瀬那がたくさんの女子に囲まれ、ハーレム状態だった。

彼の正体がASUKAだと分かった途端、その人気は更に上昇。
お陰で折角仲良くなれた悠梨も、今の彼の傍にはさすがに近づけずにいた。





「でも、さすがに本人を目の前にすると不思議な気分ね」


「だねー。今まで普通のクラスメイトだと思ってたけど、芸能人だと分かってからなんか違和感出るっつーか」


「ま。俺は前から知ってたから対して違和感も何もないけどな」





しかし、悠梨の周りは相変わらずで。
朝、あの騒ぎを見事解決へと導いた茜もある意味一躍有名に。

このクラスメイトも、瀬那がASUKAだと分かってからも、今まで通り接してくれていた。
いや、以前よりも仲好くなっているように見える。


賑やかな会話の中から「以前より話しやすくなった」、「接しやすくなった」という声が多く聞こえる。
瀬那は瀬那でなかなかに楽しそうにしていた。

そんな中。





「ちょっとォォォォォ!!皆、嘉山君に夢中になるのは結構だよ!?僕も少しだけ事情知ってたからね!
 でもさ、いい加減【時雨祭】の出し物考えてよ――――――っ!!」





委員長であるさとるの嘆きはとても悲痛で悲痛で。
クラスメイトは瀬那を中心になんとか行事の出し物案を追い上げるようにして話し出した。

本日より一週間前となった。
追い詰められたこのクラスは、果たして準備に間に合うのか。

そして、無事【時雨祭】に参加する事が出来るのか―――――…。


忙しくなる瀬那と悠梨の気付かない所では、何やら怪しい影がこっそりと動いていた。
それは果たして"吉"の存在か、それとも"凶"の存在か。





「おっ。コレ使えるんじゃね!?」


「よーっし!んじゃ、コレを見つからねーように悠梨ちゃんの下駄箱に入れて置くぞっ」





怪しい影は誰にも気づかれることなく、悠梨の下駄箱に一通の封筒を潜ませて去って行ったのだった…。





<第7話     エピローグ(挿絵有り) / (挿絵無し)>